【感想】塚瀬進『マンチュリア史研究ー「満洲」六〇〇年の社会変容』(吉川弘文館)

感想文を長く書くのは少し疲れるので、思いついたことを箇条書きで記していきます。

<興味の背景>

  1. 長らく読書から離れていたため、再開にあたって興味ある話題について本を読もうと考えた。
  2. 若い頃のゲームの影響(大戦略、提督の決断など)で昭和史に興味があり、その中でも満州事変の周辺は詳しく踏み込んだことがないので、この話題に関係する本を読もうと考えた。
  3. そもそも満州とは何か、ということについて何もわからなかったので、Kindleストアで検索したところ、小峰和夫『満洲』(講談社学術文庫)が目に止まり、読んでみることにした。
  4. 読み進む過程で満州という概念が一筋縄でいかないことを感じるとともに、もう少し理解の度合いを深めたいと考えた。また小峰和夫『満洲』(講談社学術文庫)の原本は1991年刊行であり、今から約四半世紀も前になる。当然、四半世紀も経過すれば学術上の進展もあるだろうと考え、直感に従って手頃な学術書を求めることにした。
  5. 神田古書街の南海堂書店にて、タイトルがそのものズバリである塚瀬進『マンチュリア史研究』(吉川弘文館)を発見。定価11,000円に対する販売価格7,500円でお買い得感もあり、手頃な値段かどうかは差し置いて買い求めることにした。決めては参考文献と従来研究のまとめがしっかりしていそうだったこと。この時代の研究領域についてはなんの予備知識もなく、本当の直感であった。

<読書の目的>

  1. 満州に関する研究がどのように行われてきたか、その視座を得ること。
  2. 先に読んだ本の知識をベースとして、最新研究内容に理解をアップデートすること。
  3. 興味対象を拡大しながら、次に読むみたい本を探ること。

<懸念してたこと>

  1. この分野に関する基礎知識が全くない。この点は読み進めながら理解していくしかない。鶏が先か、卵が先か、みたいな議論である。
  2. 地名が出てきても、それがどこを指すかパッとわからない。地図はほしいけど、中国歴史地図集は現在、8冊セットでないと購入できない。

<感想>

  1. 明清期の制度に関する知識を全く欠いているため不安に思ったが、必要最低限の説明は付されていたので意味不明のまま読み進めるようなことはほとんど起きなかったと考える。ただし、曖昧なまま読み進めた項目もいくつかある。これらはおそらく、この本を買い求める人であれば常識のたぐいなのだと思われる(私のような一般人が買うのは想定されていない)。例えば「羈縻衛所」「馬市」「招撫」「京運年例銀」「旗人、旗界、圏地⇔民人、民界、民地」etc…
  2. 当時の経済活動に関する記述に対する理解をすすめる上で、経済学の基礎的な知識が必要とされること(物価や振替決済、兌換紙幣、非兌換紙幣など)。これに加えて流通している貨幣が時代、地域ごとにバラバラで理解が簡単に追いつかない。
  3. そもそも清朝の旗民分治制とは何か。旗人=世襲制の軍人階級という理解で良いか。しかしながら、非兵士の旗人も清朝末期には多く居たとされ、結局、本書を読んでもはっきりとした理解を得ることはできなかった。もっとも、これだけで独立した研究テーマとなる代物である。現在進行形で研究が進んでいるのであろう。
  4. 満州国に対する見方が広まった。日本と満州の商習慣的な違いからくる、日本主体の統治の困難性。日本の経験に基づく施策は、村民末端まで浸透することはなかったとしている。また重化学工業に対する投資により、一部では企業城下町を形成したが、それは満州国内一般の事象ではなく、特定の地域で見られた現象だとしていた。満州国の政経関係はもう少し調べてみたい。

以上

【再読】M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫)

ここ数年は電子書籍ばかり読んでいて、仕事上を除けば紙の本は滅多に読むことがなかった。しかしここ最近、紙の書籍に復帰した。きっかけは何年か越しの部屋の掃除であった。

 

読書そのものを止めていたわけではないけども、電子書籍ばかり流し読みしていた結果、アウトプット行為からは久しく離れてしまっていたように思う。ここのブログの更新履歴が何よりも物語っている。

そこでもう一度、読書という行為をおさらいする為にM.J.アドラー「本を読む本」(講談社学術文庫)を読もうと考えた。アドラーは読書という行為について、このように述べている。

読むということは程度の差こそあれ、ともかく積極的な行為だが、積極性の高い読書ほど、良い読書だということを特に指摘したい。(p.16)

高度な読者を相手に書かれた難解な本こそ、このような積極的な読み方が必要であり、また、そのような読み方に値する。(p.19)

その意味で、本という物は自然や外界と似ている。本に向かっていくら問いかけてみても、読み手が考え、分析した限りでしか、答えは返ってこないのである。(p.25)

積極的な読書という考え方は、本書全体を貫くテーマである。ある種の啓蒙、鍛錬として良い読書を位置づけ、その手段を読者に与えることが本書の目的である。娯楽としての読書は初めから対象外とされている。

原書の発刊時期は1940年のアメリカ。ここまで強烈に積極的な読書を推進する訳は、マスメディアに囲まれた生活によって人間の精神的な営みが衰えているという危機感がある。テレビやラジオ、様々な娯楽や情報は人為的なつっかい棒であるが、人間的な成長はもたらさない。積極的な読書による精神的成長を続けなければ、人間としての死を迎えるとまでアドラーは断言する。

自分の中に精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死がはじまる。(p.254)

自分の中に精神的な貯えを持たなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。そのとき、われわれの死がはじまるのである。(p.254)

こういったアドラーのテーマと問題意識を背景として、読書術が展開されていく。古今東西の膨大な書籍に対して綿密な分析を実施することはとてもでは無いが、時間的にも労力的にも困難である。その為、具体的な分析読書やシントピカル読書をする前に点検読書を推奨する。点検読書の目的は、多量の文献に対して精密分析するだけの価値があるかを短時間に峻別することにある。巷の速読術とか大量にビジネス書を読みこなすテクニックなどは、この点検読書の一種である。

  • 表題や序文
  • 目次
  • 索引
  • 帯などの謳い文句

こういった情報を参考としながら、拾い読みして全体のテーマや論点を整理し、その後の段階に至るべきかどうかを読者は判断しなければならない。そしてその中で己を成長させうる、難解な書籍に対して分析読書を開始するのである。

分析読書ではキーワードや単語の使われ方、論理展開に気をつけながら著者の主張の把握に努めることになる。しかしながら、読者の役割は著者の主張を理解するだけではない。

内容が理解できただけでは、積極的読書として十分とは言えない。「批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する」。(p.146)

つまりアウトプットである。アドラーは批評のポイントとして、著者の主張に以下4点が欠落していなかったか読者に確認を求める。

  1. 知識が不足している
  2. 知識に誤りがある
  3. 論理性に欠け、論証に説得力が無い
  4. 分析が不十分である

この4点のどれかが引っ掛かれば、読者は著者に対してその誤りや不十分さを指摘する。逆に、これらが完璧であれば、読者は著者の主張に対して首肯することになるのである。

そして著者が最後に掲げるのがシントピカル読書である。これはあるテーマに従って複数の書籍を比較検討する読み方であって、卒業論文等で実施される文献調査のようなものである。その際、読者は各書籍の表面的な用語やキーワードの違いに惑わされることなく、書籍同士の関連性を見抜かなければならない。よって、シントピカル読書を実行する為には点検読書や分析読書に習熟していなければならない。高度な知的営みである。

シントピカルな分析が獲得しようとしている特性は、「弁証法的客観性」という言葉で要約される。(p.234)

書店に行けば読書術に関係する書籍は幾つも見るが、このアドラーの「本を読む本」はその中でも白眉である。本を読み、その内容をアウトプットするという知的営為を行う者にとって、本書は座右とすべき一冊と考える。

なお、本書の紹介は2回目となる。過去の記事を読むと、同じ本を読んでも感じ方が違うものなのだなぁと思った次第。

ブログに回帰してみようかな、という話

さてどうしましょうか、ということである。現状、年1回程度の投稿をするためにこのブログがあるといっても過言ではない。しかも投稿内容は取り留めのない話ばかりである。差し当たり何か語りたいことがあるかといえばそうでもないし、何も語るべきことがないわけでもない。単に話題を見つける力の低下というべきか。

それでもブログを続けているには理由があって、それはこの独自ドメインを普段のメールサービスとして利用している、というものである。独自ドメインなので仮にプロバイダ契約を変更したり、Gmail利用を控えたりするときの避難場所として有効であるし、いざとなればメールアドレスを無限に増やせるからゲフンゲフン…というわけである。このブログはそのオマケとして存続しているといっても過言ではない。

このブログはレンタルサーバー業者(Lolipop)が提供するWORDPRESSというサービスを利用したものであって、定期的にバージョン更新が行われる。この記事を書いている段階ではver.4.4.2である。存続させる以上は最低限のセキュリティに配慮するわけで、全く管理していないわけではないのである。実は本日もレンタルサーバ業者からセキュリティ維持のためのバージョンアップを急かされて対応したのである。

今回、ふと気になってWORDPRESSに関係する書籍を調べていたところ、今更ながらではあるが、ホームページ代わりの運用も可能であることがわかった。周回遅れもいいところである。せっかくポメラDM100を毎日持ち歩いていることであるし、何か思いついたことを取り留めもなく記して投稿しようと思った次第なのである。

本当はしっかりとコンテンツ内容を検討したり宣言したり、ということを経て動く方がいいのかもしれないが、私はそういうことが向いてない性分らしい。だから思いついたらとりあえず動きつつ、後から軌道修正をする感じでも構わないのではないかと思っている。ここのブログの中でグダグダしている分には誰に迷惑をかけるわけでもない。
ということで、次回はまた何か思いついたら投稿する予定である。

向殿政男『よくわかるリスクアセスメント-事故未然防止の技術-』(中災防新書)

https://www.jisha.or.jp/order/tosho/index.php?mode=detail&goods_cd=25839

リスクアセスメントに興味があったことから上記の本を読了した。初めて触れる内容では無いから中身の一部は知っていたが、卑見の限り、内容は簡潔で抑えるべき処を抑えており、入門として非常に有用だと思う。

本書の内容は文字通り、リスクアセスメントである。安全設計思想、危険源の同定、リスク分析、リスク低減策の実施。これらを一言で言ってしまえば、安全性に関する事前評価ということになる。完全無欠な安全、というものがこの世に存在せず、且つ期待することも出来ない以上、どの程度まで事故のリスクを低減すべきなのか、その手法について論じている。

具体的な内容は買って読んでいただくことが正解だと思うので差し控えるけども、企業にとってどこまでリスクを評価し、低減するべきかという判断は難しい。業種によって大丈夫とするリスクレベルは異なるだろうし、またリスク回避策としての多重化や冗長化は一般的に手間暇やコスト増加に繋がる。安全は目に見えないから、コスト削減を掲げるときにはこういった多重化や冗長化は軽視されてやすい。その為にも、何によって安全を確保しているのか、その評価基準を設定して認識を共通化させておくのは、対外的にも、内部的にも重要であるように思われる。

リスク評価の話自体は決して難しい話ではないが、それを社内でどのように位置づけて、、、となると急に一筋縄でいかない調整を要する問題となる。この本は基礎である。これを今の環境に対してどのようにしてシステマチックに運用していくかが、担当者として必要な実務能力となるのだろう。

pomeraと電子書籍専用端末

昨日の記事で言及したかったのだが、話の流れの都合で言及できなかったので、別の記事として書いてみたい。

文房具に限らず、電子文具(pomera)とか電子書籍とかの類も好きで、帰りがけの電器量販店で色々と見て回っている。しかし、最近はpomeraや電子書籍の専用端末を利用する機会がめっきりと減った。今回はその辺のことを書こうと思う。

まずpomeraから。pomeraを購入したのは今から2年前のこと。ちょうどAndroidタブレットが流行りだした頃で、当時の私もAndroidタブレットとpomeraの両方を購入している。Android機はタブレットに対する興味とノートパソコンの代わりになるかも知れないという期待を込めて購入していたものだ。しかしながら、私が購入したタブレットは持ち運びに重く、嵩張るのでいつでも持ち歩くわけにも行かず、結局pomeraを活用することになったのである。また、当時は業務上、議事録作成としてpomeraを活用していたし、ブログ記事もpomeraで下書きしていたから活用の幅は広かったと言っても良い。

最近になってpomeraの活用が減ったのは以下二つの理由からだ。一つが外出時に単純な記録係としての役割が減って、実際に話をする主体となることが多くなったことだ。当然、記録は持参した紙資料へのメモで断片的になるし、足りない分は音声記録でカバーした。そして最終的にはそれら記録を持って会社で清書することになる。もう一つがそもそもブログを書かなくなってTwitterメインになり、pomeraを使用するまでもないレベルの文章しか作成しなかったこと。

また、pomera(DM20)は日本語変換機能が少々残念で、一般的な文章ならいざ知らず、歴史とか仕事上の文章だと変換に困ることも少なくなかった。結果、2013年末に購入した8インチのWindowsタブレットとBluetoothキーボードの組み合わせが日本語変換機能の上でも、その他汎用性でも便利であり、しかもWindowsタブレットは浪費さえしなければ電池寿命もそれなりにあるのでpomeraを敢えて持ち出す必要はなくなったのである。

次ぎに電子書籍である。厳密に言えば今でも電子書籍は読んでいるが、読んでいるのはスマホかタブレットを介してであり、専用端末を使用して読むことは殆ど無い。何故なら専用端末は不便だからである。

何が不満かと言えば、購入した電子書籍サイト毎に使用できる端末が異なるからである。booklive!で購入した電子書籍はsony readerで読むことはできないし、Kindleを筆頭にそれ以外の端末でも同様である。しかしながら、読みたい本のラインナップはどこの電子書籍サイトでも同じもの……というわけではなく、サイト毎に微妙に異なっている。よって、読みたい本を電子で読みたい場合は複数の電子書籍サイトを利用する結果となり、その為に別々の専用端末を用意するのはとても面倒で賢いとも言えない。ましてや、同じタイトルの本を別の電子書籍サイトで複数購入することはお金の無駄であるから、やりたくない。結果、一つの端末で済むスマホやタブレットを介した電子書籍利用に落ち着くのである。電子書籍は今後も生きるだろうが、現状のような囲い込みを企図した専用端末のあり方では不便すぎて誰も買わないだろうなぁ、と思う次第なのである。

瞬間的には魅力的な電子文具だが、何だかんだでスマホやタブレットのような汎用機に回帰せざるを得ないというのは、何とも寂しい気持ちにさせられる。ま、用途あっての文具であるから、世相と個人的環境により必要とされるものが変わるのは仕方無いのかも知れない。

万年筆その後

 文具が好きである。電子文具もアナログな文具もみんな好きで、買いこそしないが見ていて楽しいのである。一般人レベルでのパソコンの時代の到来を告げるWindows 95が発売された頃はまだ小学生高学年で、その前後では父親が仕事でワープロを使用していたからアナログな世界は学校の中だけに存在した。小学生の頃の文房具なんて、DQのバトル鉛筆を購入して転がして遊んだり、定規をペンではじき飛ばして相手の定規を机の外に落としたり、イライラしたときは鉛筆を囓ったり折ったりするなど、せいぜいその程度の存在であった(少なくとも私の地元では)。

 文房具に対して強い興味を覚えたのは大学の研究室に入ってからで、趣味としての文具の世界を知ったからである。当時、私の所属していたグループでは万年筆を持っている人が数名居り、面白そうだなぁと眺めていたのを覚えている。ただし記憶が正しければ、大学時代に興味は持ったけれども実際に買うには至っていない。理由は単純で、万年筆は高級筆記具であり、そこにまでお金を投じる余裕なんてなかったからである。もしかしたら買ったかも知れないが、だとしても記憶に残らない程度の印象・値段である。

 そういう訳で、実際に文具関係に手を出したのは社会人になってからで、自分で稼いだお金を自分で使えるようになってからである。その辺は前の記事に細かく書いたので差し置くが、最近になって(それでも購入したのは2013年3月頃である)金ペンの万年筆も購入した。先のCoCoonと同じPILOT製のCustom 74である。ただし私の場合は左利きであるという個人特有の難点があって、普通に書くと文字を押したり巻き込んだりする為に中字のペン先なのに文字が掠れてしまう。ネットでは持ち方を工夫して万年筆本来の書き味を引き出す方法もあるのだが、この書き方はかなり修練を必要とする上、普段使っているのは万年筆だけではないので変な癖が付いても困る。結果、自然と筆圧をやや強めにしてペン先に負荷を与えて書くスタンスに落ち着いていた。

 長い前書きになったが、ここからが本題。実は世の中には左利き用の万年筆というのが存在していて、一つはSAILORのプロフィット21レフティという代物で、約2万円。基本は細字であり、それ以外のペン先だと特注品で1ヶ月近くの時間を有するという。もう一つは伊東屋で保管してたPILOTの現在絶版の左利き用万年筆で各種ペン先のサイズがあって3万円。いずれも力を入れずにスラスラ書けて感動的だった。しかしながらお値段を考えると買うには迷うし、買ったら確実にCustom 74を使わなくなるしで悩ましい時間が続いた。

 そんな悩みを抱えていた或る日、ラゾーナ川崎の丸善にてPILOTのペンドクターがペンクリニックを開催するとの情報があった。私の左利き特有の悩みも解決してくれるかも知れない、という期待があった。何しろ、売れないにしろ左利き用の万年筆が既製品で登場するのである。幾らかお金を払えば調整できるだろうと期待した。相談した結果、ペン先のインクフローの状態を少し弄っただけで書き味が劇的に向上。全く力を入れなくても掠れずに文字を書けるようになった。しかもお値段はタダ。PILOTさん、流石です。
PILOT ペンクリニック

 CoCoonでの万年筆デビュー以来、やはり私はPILOTの万年筆に縁があるみたいで、今後も引き続きPILOTさんには万年筆事業を頑張って欲しいものである。

班固『白虎通』巻一 號 (2)

久しぶりの投稿になります。間が空きすぎて漢文のルールを忘れかけていますが、取り敢えず今回は『白虎通』第一巻の号の解説箇所の第二段落を見ていきたいと思います。

或稱天子,或稱帝王何?以為接上稱天子者,明以爵事天也。接下稱帝王者,明位號天下至尊之稱,以號令臣下也。故《尚書》曰:帝曰「諮四岳」。王曰「格汝眾」。或有一人。王者自謂一人者,謙也。欲言己材能當一人耳。故《論語》曰:「百姓有過,在予一人。」臣下謂之一人何?亦所以尊王者也。以天下之大、四海之內,所共尊者一人耳。故《尚書》曰:「不施予一人。」或稱朕何?亦王者之謙也。朕,我也。或稱予者,予亦我也。不以尊稱自也,但自我皆謙。

これを書き下すと、ちょっと久方ぶりなので不慣れですが、以下の通りになります。

或いは天子を称し、或いは帝王を称するのは何ぞや?おもえらく上に接し天子を称するは、爵を以て天に事うるを明らかにするなり。下に接し帝王を称するは、天下至尊の称を号し、以て臣下に号令する位を明らかにするなり。故に『尚書』曰く、帝曰く「四岳に諮れ」。王曰く「汝の衆を格せ」。或いは一人を称す。王者自ら一人を称するは、謙なり。己材よく一人当たらんと言うを欲するのみ。故に『論語』に曰く、「百姓に過有るは、予一人に在り」。臣下、之の一人を言うは何ぞや?亦た王者を尊する所以なり。天下の大、四海の内を以て、共に尊する者は一人をするところのみ。故に『尚書』曰く「予一人に施さざる」。或いは朕を称するは何ぞや?亦た王者の謙なり。朕、我なり。或いは予と称するは、予亦た我なり。尊を以て自らを称さざるなり。但、自我皆謙とす。

最初の問いは天子と帝王の違いについて。『白虎通』では天子を称するのは天に仕えていることを示すためであり、帝王を称するのは臣民のトップであることを明示して天下に号令をかけるためであると解説しています。

帝が諮るべき四岳が何かということですが、この四岳は山岳のことではありません。『尚書』堯典篇の注疏を見れば分かりますが、四方を司る諸侯のことで帝王を補佐するために儲けられました。また「汝の衆を格せ」は原文だと「汝の衆を裕せよ」となりますが、『白虎通疏証』著者の陳立は、『尚書』盤庚篇にて「格汝眾」の表現があり、格と裕は韻も声も同じなので誤ったのではないかという推測をしています。尚、『尚書』盤庚篇に於ける「格」の意味ですが、『爾雅』釈言篇の解説に拠れば「来たる」という意味になるようです(参照:孫星衍『尚書今古文注疏』)。「汝の衆、来たる」だけでは意味が分からないのですが、この『尚書』盤庚篇全体が盤庚による民衆の教化に関する話になっていますので、総合的には民衆を教化するニュアンスで捉えておけば良いのかな、と。

皇帝の使う自称である一人、朕、予は謙遜表現です。特に天子が「予一人」と称する時は「私は人であって余人と異なるところがない」を意味すると『尚書正義』に記されています。本来、天子は天の代理者という名目がありますから、その代理者が「人」を称すること自体、謙遜した表現になると言うことです。また「朕」が皇帝専用の自称になったのは秦漢の時代以後で、それ以前は貴賎の区別無く「朕」を自称に用いました。具体例では帝堯や帝舜といった五帝、春秋戦国時代の屈原などが「朕」を自称として用いています。

『白虎通』を読むことは『尚書』を読むことに通じますので、何とも神経を使います。特に『尚書』なんて注釈だらけなので、いま上述したことが正しいのかどうかすら、怪しい。間違っている点はどうぞ、遠慮無くご指摘ください。

パズドラをプレイしてます

TwitterのFollowerさんの中で「puzzle & dragon」というアプリををプレイしている方が結構いたりするので、最近になって私も始めている。ゲームの詳細は各種wikiや紹介記事に譲るとして、今の私の状況がどんなことになっているのかご紹介しよう。

 
そんなわけで、以下はゲームに興味ない人にとって面白くない記述が続くので、回れ右奨励。

万年筆購入

最近、万年筆に興味を持つようになった。その遠因は先月に大学時代の先輩と一緒に行った来年の手帳探し、又は同じような時期に訪問した文房具カフェに求めることができる。

実は何年か前にも万年筆に興味を持ってOHTOのF-Lapaを購入したのだが、あまり文字を書き残す習慣はなかったことから最終的に使わず終いで万年筆そのものも紛失してしまった。今思うと少し勿体ない気もする。その間、私は世の中に出回っている電子文具を試し、pomeraなど一部は購入したし、スマホやタブレット、ノートパソコン、後はいくつかのSNSやクラウドサービスも利用。ともすればアナクロな物など不要と言わんばかりの環境になっている。一方、手帳は手書きで整理していたりして、必ずしも完全に手書きの機会はなくなっていない。

今回、新しく購入したのはPILOTのコクーン。万年筆の特性上、左利きにとって万年筆は扱いづらい代物という話もあったりするが、丸善の文具店で目立つ位置にあり、試し書きをして引っ掛かり無く書くことができ、デザインがシンプルで好みであり、しかも高くない(←重要)。そういった理由により購入に至った。

以後、比較のためにPLATINUMのプレピープレジール、それと無印良品のアルミ丸軸万年筆を購入した。感想としては、プレピーは見た目が凄く安っぽく、紙に引っ掛かる感覚があり、またインクが掠れたり逆に大量に出てくる等イマイチ出力が安定しない。200円という破格の値段を考えれば仕方無いことなのかも知れないが、長く使おうとしたときにインクによるイライラは軽い問題では済まされない。また、プレジールはそれ以外の万年筆全てが細字(F)なので敢えて中字(M)を購入したが、それが幸いしたのか、インクは比較的安定して出ているし、持ち方次第では力むことなく文字を書くことができる。ただこれも、ペンの持ち方を極めて制限するので、その点は常に注意を払わねばならぬ。無印良品は見た目もシンプルで価格も安いが、何も書き味とかで主だった不満はなく、1000円少々で入手できるのであれば御の字である。ただ、長時間持っているとアルミのグリップが少し辛いかも知れない。こればっかりは長時間連続使用してみないとわからない。

それとこれは完全に好みの問題だが、PLATINUMのカートリッジインクは全般的に水彩のような雰囲気があって、硬質な文章を書くときにはえらく不向きであるように思う。逆にふんわりとした(?)文章を書くときには面白いかも知れないが。コンバーターでも取り付けてPLATINUM純正の好みの色を探すしかないだろうけど、果たして200円とか1000円の万年筆でやることなのかと考えると少し躊躇する。ネットを検索すると、やっている人も居るみたいだけど。

いずれにせよ、常用する万年筆を選ぶとすれば手持ちの中ではコクーン一択。無印良品の万年筆は黒いインクなので、会社に置いておいて使い潰すのが正しい利用法だろう。もっともこの無印良品の万年筆はOHTOによるOEM生産で、インクは欧州共通規格だったりするから限りなく汎用的だったりするのだけれども。