ブルーノ・ラトゥール『科学論の実在―パンドラの希望』(産業図書)

科学論の実在―パンドラの希望

科学論の実在―パンドラの希望

サイエンス・ウォーズという科学哲学における論争の中心メンバーの一人、ラトゥールの著作。本書のきっかけは友人の『あなたは実在を信じますか?』という問いであったという。それはつまり「主体‐客体」という二分法によるモダニズムの決着法を信じるのか、という問いに還元される。ラトゥールはこの問いに対し、それらとは異なる「人間‐非・人間」というノンモダンの決着法を提案しようとする。本書はこの「人間‐非・人間」という関係性を説明するための膨大な証明である。

何故ラトゥールは「人間‐非・人間」というあり方を提案するのか。それはサイエンス・ウォーズが構築主義と実在論のいずれかの立場に立つことを強要してきたからだ、との認識がある。論争の渦中に巻き込まれたラトゥールにとって、この一連の論争は非常に不毛であると映ったようだ。

換言すれば、科学論のプロジェクトは、科学の闘士が人々に信じさせようとしていることとは逆に、科学と社会の間には「何らかの結び付き」が存在するのだというア・プリオリに主張するのものではない。というのも、この結び付きが存在するかどうかは、それを確立するためにアクターたちが行ったことや行わなかったことに依存しているからである。科学論は単に、この結び付きが存在するときに、それを究明するための方法を提供しているに過ぎない。

ラトゥールは本書の中でこのように言及し、激しい論争の中で荒廃してしまった科学論の舞台を復興させようとする。しかし、一方で

確かに科学論はある説明を与えるのだが、それは、集合体的な存在から科学の諸分野を摘出することによって得られた社会という無用な概念の人為的な起源についての説明である。この摘出手術のあとに残るのは、一方に人間だけからなる社会と、他方に概念的なコアだけである。

と述べ、科学論が単に科学の専門的な説明と社会的要因を結び付けるだけでは、お互いに無関係な文脈が併記されているに過ぎなくなる。そのため、ラトゥールは「社会」という概念を捨て去ることによってこの事態を解決しようとする。

ラトゥールが「社会」という概念を捨て去るのに用いたのは、なんとプラトンの『ゴルギアス』におけるソクラテスとカリクレスの問答であった。ソクラテスはカリクレスの議題を巧妙にすり替え、単純化することで論破した。同様に、社会学者は「権力」から「理性」を完全に分離し、まるで「権力」に「理性」が伴っていないかのような前提で議論を行う。しかし、カリクレス自身もそのような想定をしていないように、アテネの民衆たちに道徳や秩序が未だかつて完全に欠落していたことはない。それはあくまで観念上の産物であって、実際に生きる民衆を適切に描写していない。そしてそれと同様に、未だかつて「理性」を全く伴わない「権力」は存在しない。つまり要約するとこうだ。

〈理性〉の定義の中に〈権力〉の定義と共通しない特徴は全く存在しないのである。したがって、両者のあいだを行きつ戻りつしたり、片方を犠牲にしてもう一方を拡大しようとしたりしても、得られるものは存在しない。しかし、〈権力〉/〈理性〉という双子のリソースが発明された場所と状況、すなわちアゴラに注意を向けるなら、すべてが得られるだろう。

結局、ラトゥールが言いたいことは何であったのであろうか。「人間‐非・人間」という決着法を示すため、アマゾン流域での土壌研究やパスツールの細菌研究、果ては古代ギリシャの古典まで引用した。結論の中でラトゥールは次のように述べる。

外側の世界など存在しない。しかし、それは、世界が存在しないからではなく、内側の精神も存在しなければ、論理学という狭い小道以外には何も頼れるものがない言語の囚人も存在しないからである。言語に浸った孤独な精神にとっては、世界について本当のことを話すことは信じられないくらい稀なことであり、危険な仕事なのかもしれない。けれども、身体と装置と科学者と制度からなる、豊かに血管を張りめぐらせた社会にとっては、極めて当たり前の実践である。世界それ自体が分節化されているがゆえに本当のことを話すのであって、その逆ではない。

要約すると、ラトゥールの言わんとしていることは理論負荷性である。例えばある行為の観察を行ったとすると、その観察の結果が元の前提条件に影響を与える。主体‐客体の二分法では客体たるべき観察対象が、一つのアクターとして振舞うのである。そこには翻訳、分節化、委任、外向推移、下方推移といったプロセスが関与する。そこには主体と客体という単純な二分論は存在しない。科学において世界を叙述するということは、斯様にして絶えずお互いに関与しつつ修正を繰り返す循環プロセスである。私はラトゥールの主張をこのように理解した。

この本に関して文章を書くため、私は何度も繰り返し読み直したことをここに告白する。最初の2,3回だけでは本書の言わんとするところ、議論の目的と結論が把握できなかった。5回くらい読み返したときに論点が薄っすらと見え始め、ようやく文章にできるところに漕ぎ着けた。本当はラトゥールと意見を異にする著作を読み、もっと知識を深めていかねばならぬのかも知れないが、今の私では上述のような稚拙な文章を書くのが限界であった。もう少し色々な本を読み、より深い論議ができるようになりたいと思う所存である。

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