漢代の州従事について(厳耕望氏の著作より)

昨日、Skypeでむじんさんやにゃもさんと話をしていて、州従事について言及があった。その際、私はこの役職がどのような役割を負っているのか具体的なところを掴んでいなかったため、その概要について厳耕望『中国地方行政制度史―秦漢地方行政制度』(上海古籍出版社)の州従事の項目を調べて見た。すると、凡そ以下のような仕組みになっていたことが判明する。本当はせめて手持ちの文献である大庭脩氏や王勇華氏、小嶋茂稔氏の著作を参照した上で言及する必要があるのだろうが、今回はとりあえず割愛する。

漢代で州従事に言及するのは前漢の宣帝の時代。ただし、このときの従事は州刺史に同行する意味の一般動詞であって、固有の官職を意味してはいない。州従事が正式な官職として登場するのはそれよりも更に時代が下った元帝期であり、その秩禄は百石(刺史は六百石)である。州従事には部下がおり、これを假佐(書佐)という。

州の官吏の筆頭は別駕従事史であり、元々、州刺史と駕を別にして同行したことに由来する。特に後漢末になると州刺史・州牧に就いた群雄が「股肱」「謀主」として招聘することになる。一方、主簿は州内における地位が非常に低いのであるが、州刺史に関する事務及び州の文章を管轄しているため、州刺史の個人秘書とか側近のような性質を持つ。また、主簿は假佐の筆頭でもある。

治中従事史は州の官吏の任用や州内の綱紀を司り、ちょうど郡県の功曹に相当する。書佐は治中従事史の職務をサポートする。司隷校尉部では治中従事史ではなく功曹従事史と称する。

各郡国の監察に派遣されるのが部郡国従事史であり、假佐は典郡書佐という。郡国における文書管理と監察業務がその任務であるが、文書管理は典郡書佐に委任され、部郡国従事史は郡国の監察業務を主に担当する。その権限は非常に大きく、郡県の官吏・守相の悪行を見つけると上奏して罷免したり、下獄の措置を執る。郡レベルで言えば、督郵がその職務に相当する。

他、師友従事や従事祭酒の名前も史書に散見されるが、これらは「栄誉散員」とあり、恐らく名誉職や顧問職のようなものなのだろう。

主要な箇所としてはこのような感じだが、後漢末で各群雄が自立し始めると州刺史・州牧の俗吏に司馬や長史などが設置されるようになる。漢代の州従事は秩禄が低いが、権限たるや非常に大きい。今後、史書を読む際の参考にしたいと思う。

班固『白虎通』巻一 爵 (4)

王者太子亦稱士何?舉從下升,以為人無生得貴者,莫不由士起。是以舜時稱為天子,必先試于士。《禮士冠經》曰:「天子之元子,士也。」

今回の段落は非常に短い文章となっている。主題は「王や太子を士と称するのは何ででしょうね?」という疑問である。この文章の注釈で陳立が述べているが、天子や諸侯が後を継いで国のトップに立っていたとしても、爵位を賜わなければ「士」の階級と同列とされたようである。この根拠として陳立は『禮記』王制編や『春秋公羊傳』僖公五年の注釈などを引用している。

ところで天子は爵位であり、爵位を賜わなければその地位にあっても士と同列と見なされるのであれば、果たして天子の爵位を与えるのは誰なんでしょうね?天の意思が天子の爵位を賜る式を何らかの形で執り行っていたんでしょうか。嗚呼、これだから私は儀礼に疎くていけません…

班固『白虎通』巻一 爵 (1)

気力が続くうちに新しい記事を。
モチベーションが無くなると一気に更新ペース落ちますからね。
(2ヶ月に1回更新ペースとか…)

以前やっていたブログでも取り上げた『白虎通』ですが、この書物は漢代の制度や考え方について興味深い記述をしています。

そもそも『白虎通』はどうして編纂されたのか復習いたしますと、後漢初期、儒学には大きく分けて古文学派と今文学派に分かれておりました。その為、章帝の頃に制度・文化的な問題を議論するために学者・官僚が白虎観に集いました。この結果は『漢書』の著者でもある班固によって纏められ、『白虎通』となりました。『白虎議奏』『白虎通徳論』『白虎通義』とも称しますが、いずれも同じ書物です。

今回は清代の陳立によって校釈された『白虎通疏証』をベースに本文を紹介していきます。

天子者,爵稱也。爵所以稱天子者何?王者父天母地,為天之子也。故《援神契》曰:「天覆地載謂之天子,上法斗極。」《鉤命決》曰:「天子,爵稱也。」帝王之紱有優劣,所以俱稱天子者何?以其俱命於天,而王治五千里內也。《尚書》曰:「天子作民父母,以為天下王。」何以知帝亦稱天子也,以法天下也?《中候》曰:「天子臣放勳。」《書亡逸篇》曰:「厥兆天子爵。」何以言皇亦稱天子也?以其言天覆地載,俱王天下也。故《易》曰:「伏羲氏之王天下也。」

ここは「天子」という呼称が爵号である、と言及している段落です。この本文に対する注釈は色々ありますが、簡略して云えば、天下を治め民の頂点に立つ聖人に与えられる称号、と解釈すべきでしょうか。尚、この段落の出典は今文学の書籍が中心となっています。

崔寔『政論』

 司馬光『資治通鑑』巻五十八の漢紀四十五に掲載されている崔寔の『政論』。この当時(元嘉元年)は梁冀が権勢をほしいままにし、一方で京師で旱魃や地震が発生したり、匈奴や武陵蛮が反乱を起こすなど内憂外患の様相を呈しておりました。その際に以下のような文章を著して当時の世相を批判しています。尚、同様の文章は范曄『後漢書』崔寔伝、袁宏『後漢紀』孝皇桓帝紀上にも掲載されておりますが、いずれも引用内容は微妙に異なります。分量からして『後漢書』が正しいのかもしれませんが、その辺りは厳密な検証をしていないので何とも言えません。

 凡天下所以不治者,常由人主承平日久,俗漸敝而不悟,政浸衰而不改,習亂安危,怢不自睹。或荒耽耆欲,不恤萬機;或耳蔽箴誨,厭偽忽真;或猶豫歧路,莫適所以;或見信之佐,括囊守祿;或疏遠之臣,言以賤廢。是以王綱縱弛於上,智士郁伊于下。悲夫!自漢興以來,三百五十餘歲矣,政令垢玩,上下怠懈,百姓囂然,鹹復思中興之救矣!且濟時拯世之術,在於補衣定決壞,枝拄邪傾,隨形裁割,要措斯世於安寧之域而已。故聖人執權,遭時定制,步驟之差,各有雲設,不強人以不能,背急切而慕所聞也。蓋孔子對葉公以來遠,哀公以臨人,景公以節禮,非其不同,所急異務也。俗人拘文牽占,不達權制,奇偉所聞,簡忽所見,烏可與論國家之大事哉!故言事者雖合聖德,輒見掎奪。何者?其頑士暗於時權,安習所見,不知樂成,況可慮始,苟雲率由舊章而已。其達者或矜名妒能,恥策非己,舞筆奮辭以破其義。寡不勝眾,遂見擯棄,雖稷、契復存,猶將困焉。斯賢智之論所以常憤郁而不伸者也。
 凡為天下者,自非上德,嚴之則治,寛之則亂。何以明其然也?近孝宣皇帝明於君人之道,審於為政之理,故嚴刑峻法,破奸軌之膽,海內清肅,天下密如,逄計見效,優於孝文。及元帝即位,多行寬政,卒以墮損,威權始奪,遂為漢室基禍之主。政道得失,於斯可鑒。昔孔子作《春秋》,褒齊桓,懿晉文,歎管仲之功,夫豈不美文、武之道哉?誠達權救敝之理也。故聖人能與世推移,而俗士苦不知變,以為結繩之約,可復治亂秦之緒;干戚之舞,足以解平城之圍。夫熊經鳥伸,雖延歷之術,非傷寒之理;呼吸吐納,雖度紀之道,非續骨之膏。蓋為國之法,有似治身,平則致養,疾則攻焉。夫刑罰者,治亂之藥石也;德教者,興平之粱肉也。夫以德教除殘,是以粱肉治疾也;以刑罰治平,是以藥石供養也。方今承百王之敝,值厄運之會,自數世以來,政多恩貸,馭委其轡。馬駘其銜,四牡橫奔,皇路險傾,方將拑勒鞬輈以救之,豈暇鳴和鑾,請節奏哉!昔文帝雖除肉刑,當斬右趾者棄市,笞者往往至死。是文帝以嚴致平,非以寛致平也。

 詳細な解釈は手間がかかるので避けますが、話の流れは(1)現在の政治は綱紀が弛緩しているという旨を批判、(2)政治は「厳」を以て臨むべきであって「寛」であっては政治が乱れることを述べています。そして文帝の法に厳たる治世を手本とする一方、元帝の寛を基調とする政治が漢室の災いになっていると指摘しています。つまり崔寔は前漢の事例を引用することで梁冀批判を展開したわけです。

 ところが批判された当の梁冀は崔寔を自らの府に辟召します。最初は辞退しますが後に議郎を拝して大将軍司馬に遷り、辺韶、延篤らと『東觀漢記』の編纂に関与します。五原太守に転出した後、一時は梁冀が誅せられた後に門生故吏ということで数年の禁固を余儀なくされますが、基本的に辺縁部の太守を歴任します。建寧年間に死去すると家には殯を斂するだけの余力も無かったようですが、楊賜・袁逢・段熲らによって準備がなされ、袁隗によって碑が建てられます。楊賜は弘農楊氏、袁逢・袁隗は汝南袁氏で共に四世三公の家系、段熲は「涼州三明」とも謳われた勲功赫々たる将軍。崔寔の築き上げた人脈が偲ばれますね。

福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』(創文社)

漢代官吏登用制度の研究 (創文社東洋学叢書)

漢代官吏登用制度の研究 (創文社東洋学叢書)

積ん読している書籍を紹介してきます。

最初は『漢代官吏登用制度研究』という研究書。約500ページにわたって前漢後漢の両代にわたっての察挙制度の特質について詳説しています。

誰にどのような権限があって、どのような人物が対象であるか。また秩禄と察挙体制の関係、魏代に成立した九品官人法の影響など、非常に興味深い論考になっています。

人材登用制度について宮崎市定『九品官人法の研究』は必読ですが、同時に本書も余力があれば読んでおくべきかと思います。

後漢時代のお給料

『後漢書』百官志には後漢成立間もない建武二十六年の官僚の給料が掲載されている。給料のことを「奉」と称し、基本的には斛単位で表現される。実際は半銭半穀だったと記されており、穀物だけで支給されたわけではないようだ。尚、後漢時代は一斛=19.8L(参考)。

官位 米/月 容量換算 代表官職
大将軍・三公 三百五十斛 6,930L 大将軍、三公
中二千石 百八十斛 3,564L 九卿
二千石 百二十斛 2,376L 太守、大長秋
比二千石 百斛 1,980L 中郎将、校尉
千石 八十斛 1,586L 御史中丞、県令
六百石 七十斛 1,386L 州刺史、尚書令
比六百石 五十斛 990L 中郎
四百石 四十五斛 891L 県長(大)
比四百石 四十斛 792L 侍郎
三百石 四十斛 792L 県長(小)
比三百石 三十七斛 732.6L 郎中
二百石 三十斛 594L 太子舎人
比二百石 二十七斛 534.6L  
百石 十六斛 316.8L 郷三老
斗食 十一斛 217.8L  
佐史 八斛 158.4L  

これが延平年間(殤帝期)になると、以下のように変化する。出典は荀綽『晋百官表注』。表現は銭+斛数で表現されていたので、それに倣っている。記載のないところは「―」と表記した。

官位 米/月 容量換算 銭/月
大将軍・三公
中二千石 七十二斛 1,425.6L 九千銭
真二千石 三十六斛 712.8L 六千五百銭
比二千石 三十四斛 673.2L 五千銭
一千石 三十斛 594L 四千銭
六百石 二十一斛 415.8L 三千五百銭
比六百石
四百石 十五斛 297L 二千五百銭
比四百石
三百石 十二斛 237.6L 二千銭
比三百石
二百石 九斛 178.2L 千銭
比二百石
百石 四斛八斗 95.04L 八百銭
斗食
佐史

さて、問題はこの延平年間は建武年間と比較してどれくらい違うのかと言うことである。山田勝芳氏の論考では一斛=百銭程度と仮定しているのでこれを踏襲すると、延平年間は穀物換算で若干給与は目減りしているのかな、程度だと考えられる。当然、山田氏の論考にあるとおり収穫状況によってある程度の価格の揺れは起きうるし、ネット上でもJominian氏が言及する通りである。が、今はそこまで追求するつもりがないことをご了承願いたい。

これがどれくらいの感覚なのかよくわからないので今のお米価格で換算をしてみよう。学問的には意味がないけど感覚的な意味で、である。社団法人 米穀安定供給確保支援機構が公表している平成23年11月時点の全国平均価格は玄米1俵(約72L)で15,178円である。これを後漢時代の一斛で換算すると、凡そ4,172円である。太守クラスの人は毎月百二十斛の穀物を給与として得ていたのだから、単純計算すると月給50万円、年収に直すと600万円である。年収ラボの統計を参考にすると、東京都の住民の平均収入レベルらしい。

いや、ちょっとまて。それだと小規模な県に赴任した県長は月給約16.7万円(年収200万円)となり、高校新卒クラスの給与(岐阜県)になってしまうではないか。もっとも、こういった役職に就ける人物は豪族であることが多いので、荘園からの収入も充分あるはずである。これだけで家計をやりくりしているわけではない。よって高校新卒レベルの給与だったとしても問題ない…のかも知れない。

段々とやっていて収拾が付かなくなってしまったが、後漢時代の太守クラス=東京都の住民の平均年収ということで今回の結論としたい。随分と変な結論になってしまったが。

班固『白虎通』巻九 姓名 (1)

人所以有姓者何?所以崇恩愛,厚親親,遠禽獣,別婚姻也。故紀世別類,使生相愛,死相哀,同姓不得相娶者,皆為重人倫也。姓者,生也。人稟天氣所以生者也。《詩》云:「天生蒸民。」《尚書》曰:「平章百姓。」姓所以有百者何?以為古者聖人吹律定姓,以紀其族。人含五常而生,正聲有五,宮、商、角、徴、羽,轉而相雜,五五二十五,轉生四時異氣,殊音悉備,故姓有百也。

姓が何で存在するのか、ということに対する見解。曰く「恩愛を崇め、親を親しくするを厚くし、禽獣から遠ざけ、婚姻を別にする所以なり」ということ。そして生を相愛しみ、死を相哀しみ、同姓を娶ることが無いように「世を紀して類を別つ」ことで人倫を重んじるようにすると。ちなみに「紀=記」。

詩経に曰く「天は蒸民を生む」といい、尚書では「百姓を平章す」という。蒸民は多くの民、平章は公平に治めるの意味(『漢字源』調べ)。姓は古の聖人が定めたのだが、何で百姓なのかというと、【五常×五声×四時】で掛け合わせると合計百。だから百姓。

五常は普通であれば仁・義・礼・智・信の徳目を指すと思うのだが、陳立『白虎通疏証』の注釈で『潛夫論』卜列篇の下記部分が引用されていることから、どちらかと言えば五行を指すと考える。

古有陰陽,然後有五行,五行各據行氣以生,世遠乃有姓名。是故凡姓之有音也,必隨其本生祖所土也。太皞木精,承歲而王,夫其子孫鹹當為角。神農火精,承熒惑而王,夫其子孫鹹當為徴。黄帝土精,承鎮而王,夫其子孫鹹當為宮。少皞金精,承太白而王,夫其子孫鹹當為商。顓頊水精,承辰而王,夫其子孫鹹當為羽。雖號百變,音行不易。
(『潛夫論』卜列篇)

五声は本文に書いてある通り各音階を示し、四時は春夏秋冬。記憶が確かなら五行って五声とか四時を各々対応させていたから、それぞれ掛け合わせるのは不自然な気もするんだけど、まぁそういうことらしい。

とにかくここで重要なのは、姓を作った理由は同姓不婚の原則を徹底させることが第一義にあるということ。これが禽獣と人倫を区別するポイント。陳立の注釈には色々書いてあるけど、ここら辺を押さえておけば良いのかなと思う。

班固『白虎通』巻九 姓名 (2)

所以有氏者何?所以貴功徳,賎伎力。或氏其官,或氏其事,聞其氏即可知其徳,所以勉人為善也。或氏王父字何?所以別諸侯之後,為興滅国、継絶世也。王者之子称王子,王者之孫称王孫,諸侯之子称公子,公子之子称公孫,公孫之子各以其王父字為氏。《論語》有王孫賈,又有衛公子荊、公孫朝,魯有仲孫、叔季、季孫,楚有昭、屈、景,斉有高、国、崔。以知其為子孫也。王者之後,亦称王子,兄弟立而皆封也。或曰:王者之孫,亦称王孫也。《刑徳放》曰:「堯知命,表稷、契,賜姓子、姫。皐陶典刑,不表姓,言天任徳遠刑。」禹姓娰氏,祖昌意以薏苡生。殷姓子氏,祖以玄鳥子生也。周姓姫氏,祖以履大人跡生也。

三国時代ばかりやっていると縁が薄い「氏」だが、春秋戦国時代をやるとよく出てくる。『春秋左氏傳』を読む際によくわからない項目の一つとして個人的に挙げても良いくらいだ。

この氏についてだが、本文に拠れば「功徳を貴び、伎力を賎しむ所以たり。或る氏は其の官、或る氏は其の事たれば、其の氏を聞かば即ち其の徳を知るべく、人善為すを勉むる所以なり。」とする。わかったようなわからないような記述だが、この意味は陳立『白虎通疏証』の注釈に詳述されている。陳立はまず、以下の文献を引用する。

氏者,所以別子孫之所出也。
(鄭玄『駁五経異義』)

凡言氏者,世其官也。
(干寶『周礼注』)

春秋左氏伝『官有世功,則有官族』
(応劭『風俗通』)

つまり、氏とは祖先の功績に由来した族姓である。陳立はこの族姓には九つのパターンがあると述べる。そのパターンは

  1. 號〔例〕唐、虞、夏、殷
  2. 諡〔例〕載、武、宣、穆
  3. 爵〔例〕王、公、侯、伯
  4. 國〔例〕曹、魯、宋、衛
  5. 官〔例〕司徒、司寇、司空、司城
  6. 字〔例〕伯、仲、叔、季
  7. 居〔例〕城、郭、園、池
  8. 事〔例〕巫、卜、陶、匠
  9. 職〔例〕三烏、五鹿、青牛、白馬

であり、以前の記事で紹介した姓とは異なるものである。故に氏が同じでも姓が異なれば結婚できたし、逆に氏が異なっていても姓が同じであれば結婚はできない。だがこれも後世には氏と姓が共通してしまう。『春秋左傳注』の著者である楊伯峻氏は、隠公八年の記事の中で以下のように述べ、実際に氏姓の由来を区別して正確に推断することは難しいとしている。

上古姓氏起源具體状況已難推斷,不但以上各種解釋皆屬臆測,則衆仲天子賜姓之說亦是據當時傳說與典禮而為之辭,恐亦未必合於太古状況。
(楊伯峻『春秋左傳注(修訂版)』隠公八年の伝の注釈より引用)

さて、王や諸侯の場合は氏に法則があり、王の子は王子氏、王の孫は王孫氏、諸侯の子は公子氏、諸侯の孫は公孫氏である。『春秋』で公子某、公孫某の名前をよく見掛けるのはこの法則に由来する。公孫氏の次の世代になると、氏は祖父の字を採る。例えば鄭の公子去疾は穆公の子であり、字は子良である。その為、公子去疾の孫(公孫輒の子)は良氏を名乗って良霄、良霄の子は良止、と続いていく。後世になると先に述べたように氏姓の区別がなくなり、この良氏がそのまま姓に変化する。

秦漢以降を考えるのであれば、氏姓の区別を明確に把握している必要はないかも知れないが、春秋戦国時代を取り扱うのであれば覚えておく必要のある知識だろう。実際、この知識が無くても『三国志』や『晋書』、『後漢書』を読むのには支障が無いのであるから。

班固『白虎通』巻一 爵 (6)

庶人稱匹夫者,匹,偶也。與其妻為偶,陰陽相成之義也。一夫一婦成一室。明君人者,不當使男女有過時無匹偶也。《論語》曰:「匹夫匹婦。」

庶人のことを「匹夫」と称することの由来。匹夫の匹は「偶」、つまり陰陽(この場合は夫と妻)が対となることを意味するという。この段落の文章を読むに、庶人は妾を擁するような階層(士大夫層?)とは別階層であることが示唆される。だからであろうか、よく歴史小説やマンガで「匹夫!」と罵倒するのを見掛けるが、これは「この下層階級の人間め!」(おまえは士大夫の階層に相応しい人間じゃない、みたいな解釈)ということを意味するからこそ、将軍である士大夫層に対する罵倒として機能するのかも知れない。三國志で張飛が劉巴から「兵子」と罵られたような感じで。

また、為政者は「当に男女時を過ぎて偶匹無きを有らしむべからず也」といい、庶人が婚期を迎えても相方が居ないような事態を作らぬよう戒めている。陳立の注釈を参照すると、この部分は

使男女無夫家者會之。(男女、夫無き家は之を会せしむ。)
(『周禮』媒氏篇)

に対応しているという。人口の多さが国力の源泉である以上、人口を殖やす政策は為政者として重要な命題だったのであろう。

班固『白虎通』巻九 姓名 (3)

人必有名何?所以吐情自紀,尊事人者也。《論語》曰:「名不正則言不順。」三月名之何?天道一時,物有其変,人生三月,目煦亦能咳笑,与人相更答,故因其始有知而名之。故《礼服伝》曰:「子生三月,則父名之于祖廟。」於祖廟者,謂子之親廟也。明当為宗廟主也。一説名之于燕寝。名者,幼小卑賎之称也。質略,故于燕寝。《礼内則》曰:「子生,君沐浴朝服,夫人亦如之。立於阼階西南,世婦抱子升自西階,君命之,嫡子執其右手,庶子撫其首。君曰『欽有帥』。夫人曰『記有成』。告于四境。」四境者,所以遏絶萌芽,禁備未然。故《曾子問》曰:「世子生三月,以名告于祖檷。」《内則記》曰:「以名告于山川社稷四境。天子太子,使士負子於南郊。」以桑弧蓬矢六射者,何也?此男子之事也。故先表其事,然後食其禄。必桑弧何?桑者,相逢接之道也。《保傅》曰:「太子生,挙之以礼,使士負之有司斉粛端〓,之郊見于天。」《韓詩内伝》曰:「太子生,以桑弧蓬矢六,射上下四方。」明当有事天地四方也。殷以生日名子何?殷家質,故直以生日名子也。以《尚書》道殷家太甲、帝乙、武丁也。于臣民亦得以甲乙生日名子何?不使亦不止也,以《尚書》道殷臣有巫咸,有祖己也。何以知諸侯不象王者以生日名子也?以太王名亶甫,王季名暦,此殷之諸侯也。《易》曰「帝乙」,謂成湯。《書》曰:「帝乙」,謂六代孫也。湯生於夏時,何以用甲乙為名?曰:湯王後乃更変名,子孫法耳。本名履,故《論語》曰:「予小子履」。履,湯名也。不以子丑為名何?曰:甲乙者,榦也。子丑者,枝也。榦為本,本質,故以甲乙為名也。名或兼或単何?示非一也。或聴其声,以律定其名。或依其事,旁其形。故名或兼或単也。依其事者,若后稷是也。棄之,因名為棄也。旁其形者,孔子首類丘山,故名為丘。或旁其名為之字者,聞名即知其字,聞字即知其名,若名賜字子貢,名鯉字伯魚。《春秋》譏二名何?所以譏者,乃謂其無常者也。若乍為名,禄甫元言武庚。 不以日月山川為名者,少賎卑己之称也。臣子当諱,為物示通,故避之也。《礼》曰:「二名不偏諱。逮事父母則諱王父母,不逮父母則不諱王父母也。君前不諱,詩書不諱,臨文不諱,郊廟中不諱。」又曰:「君前臣名,父前子名」謂大夫名卿,弟名兄也。明不諱于尊者之前也。太古之世所不諱者何?尚質也。故臣子不言其君父之名。故《礼記》曰:「朝日上質不諱正天名也。」人所以十月而生者何?人,天子之也。任天地之数五,故十月而備,乃成人也。人生所以位何?本一幹而分,得気異息,故泣重離母之義。《尚書》曰:「啓呱呱而泣」也。人拝所以自名何?所以立号自紀。礼,拝自後,不自名何?備陰陽也。人所以相拝者何?所以表情見意,屈節卑体,尊事人者也。拝之言服也。所以必再拝何?法陰陽也。《尚書》曰:「再拝稽首」也。必稽首何?敬之至也,頭至地。何以言首?謂頭也。《礼》曰:「首有瘍則沐。」所以先拝手,後稽首何?名順其文質也。《尚書》曰:「周公拝手稽首。」

名前に関する項目。凄く長いが、落ち着いて読めば何と言うことはない…はず。

まず天子や諸侯の場合、子供が生まれると夫婦そろって沐浴し、正装に着替える。そして夫は自宅の階段の西南側に立ち、妻は子供を抱いて西側に立つ。生まれた子供が嫡子ならば子供の右手を執り、庶子ならば其の首を撫でる。そして子供が生まれたことを四境、則ち周囲に告げる。その後、生まれてから親が子供を名付けるまで三ヶ月待つ。というのも三ヶ月も待てば子供に表情が産まれ、其の人相を見て名付けるからだという。名付けたらその子の名を祖廟に報告する。これが一連の流れである。

その後、何で殷代では王の名前が甲乙丙なのか…といった話がしばらく続き(面倒なので省略する)、名付け方の実例に入る。最初に言及するのは孔子サマこと孔丘であるが、何故「丘」が名前になったのかというと、首が丘のようだったからだという。そう言われてもサッパリ意味がわからないので陳立の注釈を見ると、「孔子首四方高,中央下,有似于丘,故取名焉。(孔子の首は四方が高く、真ん中が下っていて、丘に似ているので、その名を取ったのである)」とある。やっぱりわからない。誰か絵で説明してくれ…

名と字(次段落で説明)は意味的に相応の関係でなければならず、「賜⇔子貢(賜も貢も人に与える意味がある)」「鯉⇔子魚(両方とも魚)」のような感じである。尚、『春秋公羊傳』に限ってであるが、2つの名前を持つこと(途中で改名すること)は礼に反するとして難じられる(2文字の名前は大丈夫だし、『春秋左氏傳』の立場ではそもそも2つ名を禁じていない)。

また、名前を人前で用いることは忌むべき事とされるが、例外とされる事例が幾つかある。

  • 君主の前
  • 目上の人間の前
  • 詩を書する時
  • 文に臨む時
  • 郊廟の最中

あとは省略するが、人前で稽首する理由と意味を最後に述べ、名前に関する記述は終了する。名前は正に本人を表現するのであり、昔も今も軽々しく考えてはならない。正しく「名は体を表す」のである。