『晋書』唐彬伝

唐彬字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬, 好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦恱經史,尤明易經,隨師受業,還家教授, 恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。

彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽恱,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見唐彬,卿受蔽賢之責矣。」

初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞衆力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」

俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。

後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為衆軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍唐彬受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啓戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。

北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征 鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。

彬初受學於東海閻德,門徒甚多,獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。

元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹, 錢二十萬。長子嗣,官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。

まず書き下し文。例の如く、怪しいところもあるので注意して下さい。

 唐彬字は儒宗、魯国鄒の人なり。父の唐台、太山太守たり。唐彬は経国大度有るも、而して行検拘らず*1。少くして弓馬を便とし、游猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び*2、力の強きこと人を兼ぬ。晩なれば乃ち経史を敦く悦び、尤も『易経』に明かたりて、師に随いて業を受け、家に還りて教授すること恒に数百人*3。初め郡の門下掾と為り、転じて主簿たり。刺史王沈は諸参佐を集め、盛んに距呉の策を論じ、以て九郡の吏に問う。唐彬と譙郡主簿の張惲は倶に呉兼ねる可きの勢い有るを陳し、王沈は其の対を善しとす*4。又唐彬に呉未だ伐つ可からずを難言せしむるは、而して辞理皆屈す*5。還って功曹に遷り、孝廉に挙げられ、州は(唐彬を)主簿に辟し、累遷して別駕に遷る。
 唐彬は忠粛公亮、尽規匡救、諫を顕さず以て自ら彰かにす。又奉使相府の計事に詣で、時に僚佐皆当世の英彦なるも、唐彬を見るに欽み悦ばざるは莫し*6。之を文帝*7に称するや、帝は其の参軍孔顥に問うを以てす。孔顥其の能を忌みて久しく答えざるを良しとす*8。陳騫坐に在りて、板に斂して而して称して曰く、「唐彬の為人、陳騫に勝りて甚だ遠し。」帝笑いて曰く、「但能く卿の如きは固より未だ得易からざるに、何ぞ勝を論じるや。」因りて唐彬を辟して鎧曹属と為る。帝問うて曰く、「卿何を以て辟に致すか?」対して曰く、「陋巷に修行し、古人の遺迹を観、言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。」帝は四坐を顧みて曰く、「名は虚行たらず。」他日、孔顥に謂いて曰く、「近くで唐彬を見るに、卿は蔽賢の責を受くべし。*9
 初め、鄧艾の誅するや、文帝鄧艾が久しく隴右に在るを以て、素より士の心を得る。一旦夷滅し*10、辺情騒動を恐れ、唐彬を使して密かに之を察せしむ。唐彬還り、帝に白して曰く、「鄧艾は詭狭に克つを忌み、能を矜り才を負い、順従なる者は見事と為し、直言なる者は之迕に触れると謂う*11。」長史司馬、参佐牙門と雖も、答対が指を失せば、輒ち罵辱せらる*12。身を処するに礼無く、大いに人心を失す。又行事役を施すのを好み*13、数しば衆の力を労す。隴右甚だ之を患苦し、其の禍を聞きて喜び、用を為すを肯じえず。今諸軍已に至らば、以て内外を鎮圧するに足り、願わくば以て慮を為す無かれ*14。」
 俄に尚書水部郎に除せらる*15。泰始の初め、関内侯を賜爵せらる。出でて鄴県令を補し、唐彬は徳を道き礼を斉え、期月にて化成す。弋陽太守に遷り、禁防を設けるに明るく、百姓之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東を呉寇に接するも、監軍の位を欠き、朝議して武陵太守楊宗及び唐彬を用いんとす。武帝*16は以て散騎常侍の文立に問い、文立曰く、「楊宗、唐彬倶に失す可からず。然るに唐彬は財欲多く、而して楊宗は酒を好み、惟陛下之を裁せよ。」帝曰く、「財欲は足るべきも、酒は改め難し。」遂に唐彬を用う*17。尋ね又詔して唐彬を監巴東諸軍事とし、広武将軍を加う*18。征呉の策を上し、甚だ帝の意と合す。
 後に王濬と共に呉を伐し、唐彬は衝要に屯拠し、衆軍の前駆と為る。毎に疑兵を設け、機に応じて勝を制す、西陵、楽郷を陥とし、多く擒獲する所とす。巴陵、沔口以東より、諸賊集まる所、震懼せざる莫く、戈を倒して肉袒す*19。唐彬は賊寇已に殄するを知り、孫皓将に降らんとするに、未だ建業二百里至らず、疾と称して遅留し、競わざるを示すを以てす*20。果たして先に到る者有らば物を争い、後に到る者は功を争い、時に有識は唐彬の此の挙を高せざる莫し。呉平らぎ、詔して曰く、「広武将軍唐彬は方隅の任を受け、呉寇を東御し、南は蛮越に臨み、疆埸*21を撫寧し、綏御の績有り。又毎に慷慨し、志は功を立つるに在り。頃は征討、疾くと奉命を扶け、首め*22に戎行を啓き、俘を献じ馘を授け*23、勲効顕著たり。其れ唐彬を以て右将軍、都督巴東諸軍事と為す。」徴せられて翊軍校尉を拝し、上庸県侯に改封せられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜せらる。朝に疑議有らば、毎に参与す*24
 北虜北平を侵掠し、唐彬を以て使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右将軍と為す。唐彬既に鎮に至り、卒を訓して兵を利し、農を広くし稼を重ね、威震いて武耀き、国命を宣喩し、恩信を以て示す。是に於いて鮮卑二部大莫廆、擿何等並びに侍子を遣わせ入貢せしむ。学校を兼修し、誨誘倦むこと無く、仁恵は広く被る。遂に旧境を開拓し、地を却くこと千里。復た秦の長城を塞ぎ、温城より碣石に洎び*25、山谷は且に三千里に綿亙*26せんとし、軍を分けて屯守し、烽堠して相望む。是に由り辺境は安を獲、犬吠の警無く、漢魏より征鎮之比する莫し。鮮卑諸種畏懼し、遂に大莫廆を殺す。唐彬之を討たんと欲するも、上に列ね報を俟てば虜は必ずや逃散するを恐れ*27、乃ち幽冀の牛馬を発す*28。参軍の許祗は密かに之を奏し*29、詔して御史を遣わし檻車に唐彬を徴して廷尉に付すも、事を以て直して釈せらる*30。百姓は唐彬の功徳を追慕し、生きて碑を立て頌を作るを為す*31
 唐彬は初め学を東海の閻徳に受け、門徒甚だ多くも、唐彬は廊廟の才*32有りと独り目せらる。唐彬官成ずるに及ぶも、而して閻徳已に卒し*33、乃ち為に之の碑を立つる。
 元康初め、使持節、前将軍、領西戎校尉、雍州刺史を拝す。教を下して曰く、「此の州名は、士人林藪*34。処士の皇甫申叔、厳舒龍、姜茂時、梁子遠達、並びに志節清妙にして、履行高潔。境を践みて風を望み、虚心にして饑渇し、加を思い致を延べ*35、以て不臣の典を待つ*36。幅巾相見え、道を論ずるのみにして、豈に吏職を以てし、染を屈して規を高くせんとするか。郡国礼を備えて遣いを発し、以て邑の望に副う。」是に於いて四人皆到り、唐彬を敬い而して之を待す。元康四年卒官し、時に年六十、諡曰く襄、絹二百匹、銭二十万を賜う。長子の唐嗣、官は広陵太守に至る。少子の唐岐、征虜司馬たり。

部分部分でわからないところがあったが、特に晩年で教を下した辺りはわからなかった。アレはきっとどこかの四書五経あたりが出典のはず。わかる人にはわかるのでしょう。雍州のあの4名って所謂竹林の七賢の亜流だったりするんでしょうか。そういった人たちが慕って駆けつけるくらいに唐彬は凄いんだぞ、と。

*1:才能があって度量も広いけど、品行方正というわけではない。後述するように蓄財の趣味がある。

*2:逃げる鹿に追いつける走力!

*3:師匠に経学を習い、学習後に帰宅したら自分の門下生が数百人いて教えてました、と。唐彬の師匠は列伝の最後に出てくるが東海郡の閻德という人物。

*4:主戦論、ということでしょうね。

*5:呉の討伐は時期尚早という意見を難じた言動を唐彬がしたら、討伐反対派は唐彬の意見に従ったということ。

*6:奉使が相府の計事に詣でたとき、その時の唐彬の同僚はみんな当代の立派な人物であったが、それでも唐彬を見たら恭しく思われた…要は同期の中でも別格だったと云うことでしょう。

*7:『晋書』なので司馬昭のことです。

*8:孔顥は恐らく、唐彬が品行方正でないところを評価していなかったのかも。それとも妬みの類か。

*9:司馬昭がとても唐彬を気に入った為、孔顥が唐彬について何も答えなかったのを咎められた、ということである。

*10:夷=蜀漢

*11:鄧艾は才能を自負していて、自分の意見に従う人が評価され、直言する人物は反抗的と見なされるということ。正確な表現かどうかわからないが、唐彬の鄧艾評は「自分の才能を強く信じているため、その手足になる人物(イエスマン)を評価し欲しがっている」と。

*12:長史だろうが司馬だろうが参佐だろうが牙門将だろうが、鄧艾の要求に対する答えが的を得ていなかったら、罵倒されて人前で辱められるのだろう。社内である程度の地位のある人が、他の社員の前で重役から罵倒されているようなものである。

*13:たぶん、公共工事的な何か。

*14:鄧艾は人の恨みを買って隴右の人から支持されていないから、鄧艾が誅殺されたからといって司馬昭が心配するようなことは何もないですよ、という結論。唐彬、随分とぼろくそに論じたものである。

*15:何だ?治水又は水軍担当の尚書郎か?

*16:司馬炎のこと。

*17:財欲は満たされることがあるかも知れないが、酒好きは治らないので同程度の能力なら唐彬を使おう、という判断。酒による失敗のリスクを取るより、物欲に伴うリスクを司馬炎は取った。文立はその辺の判断がし辛く、後の責任回避のために司馬炎へ判断を押しつけたのだろう。すごくサラリーマン的だ、文立(笑)

*18:この文脈から判断すると、監○○諸軍事は都督職(都督○○諸軍事)の品官的な意味での下位互換と言うよりは、監軍の役割が色濃く残った職務だと言えるかも知れない。他の事例も確認したい。

*19:呉の軍勢が戦意喪失して悉く唐彬に降伏したことを指す。

*20:已に敵も戦意無く勝利も時間の問題なので、建業一番乗り競争に加わらず其の手前で留まったらしい。

*21:国境のこと。元々は田畑のあぜ道。

*22:始め、の意味。

*23:「馘」とは戦功を報告するために切り落とす敵兵の左耳、転じて首のこと。首級。

*24:これは翊軍校尉の職務なのだろう。都督職の仕事じゃないし。

*25:及び、の意味。

*26:長く続く、の意味。

*27:即時に軍事行動へ移りたいが、その意見を中央に伺って結果報告を待つという時間の浪費はしたくない、という考えだと思われる。

*28:冀州の牛馬を徴発できたのは護烏丸校尉の権限?少なくとも監幽州諸軍事ではないだろうな。

*29:所謂「コンプライアンス違反です!ちゃんとルール守りましょう!」という事で密かに上奏したのかも知れない。

*30:一時更迭されたけど事情を説明したら許された、という事だと思う。

*31:碑を立てたいあまりに自作してしまった某左伝癖の人だって居るのに…羨ましい限りです。

*32:廊廟=廟堂。表舞台で政治を取り仕切る才能がある、という意味。

*33:期待通りに唐彬が大成した時には既に師匠は亡くなっていた、と。

*34:人材が沢山居るから雍州という名前にしました、ということだろう。

*35:思加延致って何かの熟語だろうか。よくわからん。

*36:これもどういう意味かよくわからない。どこか経典の定型文だろう。

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