建安十二年の論功行賞について

十二年春二月,公自淳于還鄴。丁酉,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。(『三國志』武帝紀)

建安十二年二月の『三國志』武帝紀の記事。曹操が袁譚・袁熙・袁尚兄弟を倒して河北を平定したことを受けての発言。この丁酉の日に発表された令を清の厳可均『全三国文』は「封功臣令」と題して収録している。この論功行賞の筆頭は荀彧、次点が荀攸。この本文では「皆為列侯」と記されているが、筆頭の荀彧は既に

八年,太祖錄彧前後功,表封彧為萬歲亭侯。(『三國志』荀彧伝)

とあって建安八年には既に亭侯に封じられているため、今回の論功行賞で奉邑が千戸から二千戸に増邑した。同様に次点の荀攸も河北平定の過程で陵樹亭侯に封じられているため、奉邑が三百戸から七百戸に増邑している。さて、このような感じでこの一斉に行われた論功行賞に与った二十数名を探そうとすると、以下のような具合になる。増減や爵位の変化は「→」で表現する。また、官職の移動だけで爵位の進爵・増邑が確認できない者(賈詡など)は除外している。夏侯惇や程昱、張遼らはこの一斉に行われたタイミングで進爵されたのか不明確であるが、時期的にそうだろうと勝手に判断している。また、郭嘉は封功臣令が発布されたときには既に故人だが、どうやらこの封功臣令の恩恵に与っているようなので記載した(実際には息子の郭奕が嗣いでいる)。

名前 奉邑 爵位
荀彧 千戸→二千戸 萬歲亭侯
荀攸 三百戸→七百戸 陵樹亭侯
夏侯惇 七百戸→二千五百戸 高安鄉侯
曹仁 ?→都亭侯
曹純 ?→三百戸 ?→高陵亭侯
程昱 ?→安国亭侯
郭嘉 二百戸→千戸 洧陽亭侯
董昭 ?→千秋亭侯
張既 ?→武始亭侯
張遼 ?→都亭侯
李典 ?→二百戸? ?→都亭侯
許褚 ?→関内侯

当然ながらこれでは二十名に満たない。傾向として郷侯、亭侯、都亭侯、関内侯に封じられた人が史書に載るので、二十等爵の中でそれに満たないランク(つまり第十八級の大庶長以下)で進爵した人は恐らく記載されないのであろう。河北平定に功績があって進爵のことが史書に記載されていない人物は賈詡を始めとして他にも色々居る。こういった人たちは、進爵後も大庶長以下の爵位であったと仮定した方が適当なのだろう。

それにしても、大庶長と関内侯の間には史書に記すか記さないかの厳然たる区別でもあるのか。「○○は大上造に爵を進めた」と言った記述は見かけたことがないので、そういう暗黙の決まり事なのだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください