班固『白虎通』巻一 號 (1)

帝王者何?號也。號者,功之表也。所以表功明德,號令臣下者也。德合天地者稱帝,仁義合者稱王,別優劣也。《禮記謚法》曰:「德象天地稱帝,仁義所生稱王。」帝者天號,王者五行之稱也。皇者何謂也?亦號也。皇,君也,美也,大也。天人之總,美大稱也。時質,故總稱之也。號言為帝何?帝者,諦也。象可承也。王者,往也。天下所歸往。《鉤命決》曰:「三皇步,五帝趨,三王馳,五伯騖。」號之為皇者,煌煌人莫違也。煩一夫,擾一士,以勞天下,不為皇也。不擾匹夫匹婦,故為皇。故黃金棄于山,珠玉捐于淵,巖居穴處,衣皮毛,飲泉液,吮露英,虛無寥廓,與天地通靈也。

帝王とは何でしょうね?というお話。「号」とは何なのかについて、この段落では解説している。全部で五段落、其の中の最初の部分を取り敢えず書き下してみる。尚、例によって本文は陳立『白虎通疏証』(中華書局)に拠った。細かいことを言うと色々大変だけど。とりあえず、さっくり書き下してみる。厳密な書き下しは誰か別な人やってください。

帝王は何ぞや?号なり。号は、功の表れなり。功を表し徳を明らかにし、臣下に号令する者の所以なり。徳が天地に合する者は帝を称し、仁義合する者は王を称し、優劣を別つなり。『礼記』謚法編に曰く、「徳は天地を象りて帝を称し、仁義の生ずるところ王を称す。」帝は天号、王は五行の称なり。皇は何の謂いか?また号なり。皇、君なり、美なり、大なり。天人の総、美大の称なり。時質す、故に之を総称するなり。号が帝を為すと言うは何ぞや?帝は、諦なり。象を承くべきなり。王は、往なり。天下の帰往するところ。『鉤命決』に曰く、「三帝歩き、五帝趨り、三王馳せ、五伯騖す。」号の皇を為すは、煌々と人違うなきなり。一夫を煩らい、一士を擾らい、以て天下を労するは、皇と為さざるなり。匹夫匹婦を擾わず、故に皇と為る。故に黄金を山に棄て、珠玉を淵に捐て、穴処に厳居し、皮毛を衣、泉液を飲み、露英を吮い、虚無寥廓、天地と霊を通ずるなり。

というわけで、結局分かったような分かんないような感じなんですが、そもそも「号」とは功績を称えたり、その人の徳を明らかにする為の代物であるということ。そしてその人の徳が天地と適合していれば「帝」であるし、仁義を持ち合わせていれば「王」であると。徳が天地に合する、とは何とも判然としないですが、自然のあるべき姿に合致しているというか、儒教の徳目をそのまま体現しているとか、そういう感じの意味なんだと思います。だから帝は諦、つまり天のあるがままを体現するんだ・・・見たいな話になっていくのでしょう。

次ぎに「皇」ですが、これも号だと『白虎通』では記しています。「君」「美」「大」とか色々言ってますが、その続きを読む限り人格者のことでしょう。自らが治める対象である庶民や士について「めんどくせぇ」とか思いながら苦労して天下を収めているようでは、「皇」たる資格がないと。そういう些末なこと、面倒なことを面倒と思わないようであってこそ、「皇」なのだと。多分、私なんか一生、「皇」の有資格者になれそうもありません。

で、最後は色々言ってますが、質素倹約ですね。黄金は山に棄て、宝石は河に放り投げ、粗末な住居と衣服、飲食も贅沢しないし、家具も余計なものを置かない。これが天地と霊を通じる方法なのだと説くわけです。

そんなわけで、これに適合する人はあまり見たことないんですが、後漢末から三国時代の武将が死後「家には何も財産がなかった」みたいな記述になっているのは、この辺の考え方があるんだろうなぁ、とか思ったりします。

今回はいつもと違って、自分なりの解釈をかなり入れてしまいましたけど・・・次回はまた気が向いたら。読者諸兄の御指摘御指南、宜しくお願いします。

 

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