班固『白虎通』巻一 號 (2)

久しぶりの投稿になります。間が空きすぎて漢文のルールを忘れかけていますが、取り敢えず今回は『白虎通』第一巻の号の解説箇所の第二段落を見ていきたいと思います。

或稱天子,或稱帝王何?以為接上稱天子者,明以爵事天也。接下稱帝王者,明位號天下至尊之稱,以號令臣下也。故《尚書》曰:帝曰「諮四岳」。王曰「格汝眾」。或有一人。王者自謂一人者,謙也。欲言己材能當一人耳。故《論語》曰:「百姓有過,在予一人。」臣下謂之一人何?亦所以尊王者也。以天下之大、四海之內,所共尊者一人耳。故《尚書》曰:「不施予一人。」或稱朕何?亦王者之謙也。朕,我也。或稱予者,予亦我也。不以尊稱自也,但自我皆謙。

これを書き下すと、ちょっと久方ぶりなので不慣れですが、以下の通りになります。

或いは天子を称し、或いは帝王を称するのは何ぞや?おもえらく上に接し天子を称するは、爵を以て天に事うるを明らかにするなり。下に接し帝王を称するは、天下至尊の称を号し、以て臣下に号令する位を明らかにするなり。故に『尚書』曰く、帝曰く「四岳に諮れ」。王曰く「汝の衆を格せ」。或いは一人を称す。王者自ら一人を称するは、謙なり。己材よく一人当たらんと言うを欲するのみ。故に『論語』に曰く、「百姓に過有るは、予一人に在り」。臣下、之の一人を言うは何ぞや?亦た王者を尊する所以なり。天下の大、四海の内を以て、共に尊する者は一人をするところのみ。故に『尚書』曰く「予一人に施さざる」。或いは朕を称するは何ぞや?亦た王者の謙なり。朕、我なり。或いは予と称するは、予亦た我なり。尊を以て自らを称さざるなり。但、自我皆謙とす。

最初の問いは天子と帝王の違いについて。『白虎通』では天子を称するのは天に仕えていることを示すためであり、帝王を称するのは臣民のトップであることを明示して天下に号令をかけるためであると解説しています。

帝が諮るべき四岳が何かということですが、この四岳は山岳のことではありません。『尚書』堯典篇の注疏を見れば分かりますが、四方を司る諸侯のことで帝王を補佐するために儲けられました。また「汝の衆を格せ」は原文だと「汝の衆を裕せよ」となりますが、『白虎通疏証』著者の陳立は、『尚書』盤庚篇にて「格汝眾」の表現があり、格と裕は韻も声も同じなので誤ったのではないかという推測をしています。尚、『尚書』盤庚篇に於ける「格」の意味ですが、『爾雅』釈言篇の解説に拠れば「来たる」という意味になるようです(参照:孫星衍『尚書今古文注疏』)。「汝の衆、来たる」だけでは意味が分からないのですが、この『尚書』盤庚篇全体が盤庚による民衆の教化に関する話になっていますので、総合的には民衆を教化するニュアンスで捉えておけば良いのかな、と。

皇帝の使う自称である一人、朕、予は謙遜表現です。特に天子が「予一人」と称する時は「私は人であって余人と異なるところがない」を意味すると『尚書正義』に記されています。本来、天子は天の代理者という名目がありますから、その代理者が「人」を称すること自体、謙遜した表現になると言うことです。また「朕」が皇帝専用の自称になったのは秦漢の時代以後で、それ以前は貴賎の区別無く「朕」を自称に用いました。具体例では帝堯や帝舜といった五帝、春秋戦国時代の屈原などが「朕」を自称として用いています。

『白虎通』を読むことは『尚書』を読むことに通じますので、何とも神経を使います。特に『尚書』なんて注釈だらけなので、いま上述したことが正しいのかどうかすら、怪しい。間違っている点はどうぞ、遠慮無くご指摘ください。