『後漢書』羊続伝

羊続字興祖,太山平陽人也。其先七世二千石卿校。祖父侵,安帝時司隷校尉。父儒,桓帝時為太常。

続以忠臣子孫拝郎中,去官後,辟大将軍竇武府。及武敗,坐党事,禁錮十余年,幽居守静。及党禁解,復辟太尉府,四遷為廬江太守。後揚州黄巾賊攻舒,焚焼城郭,続発県中男子二十以上,皆持兵勒陳,其小弱者,悉使負水潅火,会集数万人,併埶力戦,大破之,郡界平。後安風賊戴風等作乱,続復撃破之,斬首三千余級,生獲渠帥,其余党輩原為平民,賦与佃器,使就農業。

中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻没六県,拝続為南陽太守。当入郡界,乃羸服閒行,侍童子一人,観歴県邑,採問風謡,然後乃進。其令長貪絜,吏民良猾,悉逆知其状,郡内驚竦,莫不震懾。乃発兵与荊州刺史王敏共撃慈,斬之,獲首五千余級。属県余賊併詣続降,続為上言,宥其枝附。賊既清平,乃班宣政令,候民病利,百姓歓服。時権豪之家多尚奢麗,続深疾之,常敝衣薄食,車馬羸敗。府丞嘗献其生魚,続受而懸於庭;丞後又進之,続乃出前所懸者以杜其意。続妻後与子祕倶往郡舎,続閉門不内,妻自将祕行,其資蔵唯有布衾、敝袛裯,塩、麦数斛而已,顧勑祕曰:「吾自奉若此,何以資爾母乎?」使与母倶帰。

六年,霊帝欲以続為太尉。時拝三公者,皆輸東園礼銭千万,令中使督之,名為「左騶」。其所之往,輒迎致礼敬,厚加贈賂。続乃坐使人於単席,挙縕袍以示之,曰:「臣之所資,唯斯而已。」左騶白之,帝不悦,以此不登公位。而徴為太常,未及行,会病卒,時年四十八。遺言薄斂,不受賵遺。旧典,二千石卒官賻百万,府丞焦倹遵続先意,一 無所受。詔書襃美,勑太山太守以府賻銭賜続家云。

まず、とりあえずざっと書き下してみよう。必要に応じて勝手に付け加えているのは了解いただきたい。というより正確ではないので(正確になるよう努力はしている)、間違いがあればコメント等でご指摘願いたい。

 羊続は字を興祖、太山郡平陽県の人なり。その先七世は二千石の卿校たり。祖父の羊侵、安帝の時に司隷校尉たり。父の羊儒、桓帝の時に太常と為る。
 羊続は忠臣の子孫を以て郎中を拝し、官を去りて後、大将軍竇武の府に辟せらる。竇武敗れるに及び、党事に坐して禁錮十余年、幽居して静を守る。党の禁を解かるるに及び、復た太尉府に辟せられ、四遷して廬江太守と為る。後に揚州黄巾賊が舒を攻めるや、(黄巾賊は)城郭を焚焼す。羊続は県中の男子二十(歳)以上を発し、皆兵を持し陣を勒し、其の小弱は悉く水を負って火に潅がしむ。会集すること数万人、埶を併せて力戦し、之を大破し、郡界平らぐ。後に安風賊の戴風等が乱を作し、羊賊は復た之を撃破し、斬首すること三千余級、生かして渠帥を獲らえ、其の余党の輩は原して*1平民と為し、佃器を賦与して農業に就かしむ。
 中平三年、江夏兵の趙慈が反叛し、南陽太守秦頡を殺し、攻めて六県を没せしめ、羊続は拝して南陽太守と為る。当に郡界に入るや、乃ち羸服して*2閒行し*3、童子一人を侍らせ、県邑を観歴す、風謡を採問し*4、然る後に乃ち進む。其の令長*5は貪なるも絜なるも、吏民は良なるも猾なるも、悉くその状を逆知し*6、郡内は驚き竦み、懾れ震わざるは莫し。乃ち兵を発して荊州刺史王敏と共に趙慈を撃して之を斬り、首を獲ること五千余級。属県の余賊併せて羊続に詣で降る*7。羊続は為に上言し、其の枝附を宥む。賊既に清平たり、乃ち班して政令を宣し、民の病利*8を候い、百姓歓服す。時に権豪の家は多く奢麗を尚び、羊続は深く之を疾とし、常に衣は敝して*9食は薄く、車馬は贏敗す*10。府の丞嘗て其の生魚を献ずるに、羊続は受けるも而して庭に懸けたり。丞は後に又之を進めたれば、羊続乃ち出で懸ける所の者を前め以てその意を杜ざす*11。羊続の妻は後に子の羊秘と倶に郡舎に往かんとするも、羊続は門を閉じて内れず*12、妻自ら羊秘を将いて行かんとす*13。其の資蔵は唯布衾有るのみにして、袛裯*14は敝し、塩、麦は数斛のみ。(羊続は)羊秘を顧みて勅して曰く、「吾自ら奉ずること此の若く、何ぞ以て爾の母に資するか?*15」母と倶に帰せしむ。
 中平六年、靈帝は羊続を以て太尉と為さんと欲す*16。時に三公を拝するは、皆な東園に礼銭千万を輸し、中使に之を督せしめ、名を「左騶」と為す*17。其れ之の往く所、輒ち迎えて礼敬を致し、厚く賄賂を加う。羊続乃ち単席に人を使わして坐せしめ、縕袍を挙げて以て之を示して曰く、「臣の資する所、唯其れのみ*18 *19。」左騶之を白さば*20、帝悦ばず*21、此を以て公位に登らず*22。而して徴して太常に為さんとするも*23、未だ及び行かずして、会*24病にて卒し、時に年四十八。薄く斂して、賵遺を受けざるを遺言す。旧典、二千石にて卒官せば百万を賻るに、府丞の焦倹*25羊続の先意に遵い、一つも受けるところ無し。詔書して美しきを褒め、太山太守に敕して府の賻銭を以て羊続の家に賜うを云う*26

その時々の個人的感想や解釈は上の書き下し文中の注釈に入れたので、参照願います。羊続は見ての通り蓄財に励まなかったので全く資産が無く、売官横行当時の靈帝期ではかなり不利に働いています。ただ、反乱鎮圧の実力は買われていたようで、廬江太守と南陽太守の鎮撫の実績がそれを物語っている。流石は羊祜の祖父。ちなみに羊祜の父親は羊衜、父の死後にお世話になった叔父は羊耽の為、この列伝で登場する羊秘は傍系か何かなのかも知れない。

*2012/02/21 09:50 – mujin氏から幾つかご指摘を受けて修正しました。ありがとうございます。

*1:免じて、の意味。

*2:ボロボロの服を着て

*3:間道を通り

*4:風謡を聞いて回ったということか?

*5:県令と県長の意味だろう。

*6:mujin氏の指摘:事前に察知との意味

*7:要は生き残った趙慈の一味は続々と羊続等に降伏したということだと思う。

*8:病=損、利=益なので損益の意味。

*9:着る物がボロボロ

*10:とにかくボロボロ

*11:王文台は『北堂書鈔』から次のエピソードを引用している。羊続は淡水魚が大好きだったので、府丞の焦倹は三月に鯉魚一頭を献上しようと望む。しかし、献上された鯉魚を羊続は食べずに庭に懸け、翌年に再び鯉魚を献上してきた焦倹へ干された鯉魚を見せて「私は鯉魚を食べないよ」という意思を示したのだという。これは私見だが、恐らく焦倹は気を利かせて上司の好きな食べ物を献上しようとしたのだろうが、それを受け取れば部下へ暗に今後もそういった行為を要求することにもなりかねない。質素倹約を掲げていた羊続としては、トップ自らその姿勢を顕示する為に大好きな淡水魚を絶ったのだろう。

*12:mujin氏の指摘:内=入

*13:羊続が中に入れようとしないので、妻が子供を引き連れて無理矢理部屋の中に突入した、という事だろうか(笑)

*14:短衣のこと。

*15:私が宮仕えするのはこういった態度であるのに、どうしてお前の母に分け与えるようなものがあるだろうか、という意味だろう。つまりこの時、羊続の妻が何か資産になる物を取りに来たのだろう。で、何もなかった…と。

*16:袁山松『漢書』には、時の太尉であった劉虞が羊続に地位を譲渡しようとしたのだという。

*17:要は売官を管理する為の役職だろう。お金の受け渡しが確実に行われたか確認する為の。

*18:実家に住む妻にすら分け与える物がないのだから、当然送る賄賂なんて持っていないのである。

*19:尚、このエピソードから巷では「天下清苦,羊興祖。」と謡われたという。出典は范泰『古今善言』。

*20:普通なら宴会場に連れて行って大いにもてなしを受ける役得なのに、粗末な席に通されて何もないと言われたら、そりゃあ心証が悪いに決まってますよね。

*21:売官が目的なので、お金が貰えなかったら大いに不都合なのです。

*22:劉虞の推薦は通らなかった、ということになる。

*23:太常なら銭は要らないのか、それとも羊続の評判を買ってのことなのかはわからない。たぶん後者。

*24:「たまたま」と読んでちょうどそのとき、と言う意味。

*25:鯉魚を羊続に贈るも受け取って貰えずにションボリしていた(かどうかは定かではない)あの人である。

*26:ということは、この二千石官(要は太守)が死去した時の百万銭の受取手は、本来その郡府の庫ということになる。家族が対象ではないらしい。