班固『白虎通』巻一 爵 (9)

父在稱世子何?繋于君也。父殁稱子某者何?屈于尸柩也。既葬稱小子者,即尊之漸也。踰年稱公者,緣民之心不可一日無君也。緣終始之義,一年不可有二君也。故踰年即位,所以繋民臣之心也。三年然後受爵者,緣孝子之心,未忍安吉也。故《春秋》:「魯僖公三十三年十二月乙巳,薨于小寢。文公元年,春,王正月,公即位。四月丁巳,葬我君僖公。」《韓詩内傳》曰:「諸侯世子三年喪畢,上受爵命于天子。」所以名之為世子何?言欲其世世不絶也。何以知天子之子亦稱世子也?《春秋》曰:「公會王世子于首止。」或曰:天子之子稱太子。《尚書傳》曰:「太子發升王舟。」《中候》曰:「廢考,立發為太子。」明文王時稱太子也。世子三年喪畢,上受爵命于天子何?明爵者天子之所有,臣無自爵之義。童子當受父爵命,使大夫就其國命之,明王者不與童子為禮也。以《春秋》魯成公幼少,與諸侯會,不見公,《經》不以為魯恥,明不與童子為禮也。世子上受爵命,衣士服何?謙不敢自專也。故《詩》曰:「韎韐有赩。」謂世子始行也。

天子諸侯が爵位を襲う場合の儀礼について。ここで「世子」という単語が頻出するが、これは「太子」と同義。古代においては「世」と「太」は互いに通用する関係だったという。それと踰年即位、つまり先代の天子が崩じて次の天子が即位する際、年を改めてから次代が即位する理由を述べている。曰く、一年に二人の君主が存在してはいけないという原則があるためという。そしてその実例を『春秋』の記事に求めている。

また、諸侯は先代が亡くなってから三年の喪が終ってから先代の爵位を継いぐのであって、それまでは子を称するのが通例とする。その理由として、爵位はあくまで天子が諸侯に与えるものであって、決して諸侯自らの所有物ではないからだとする。魯成公四年の『春秋』の記事では鄭伯が亡くなってから間もなく「鄭伯」と記して許の国を討伐していることを記しているが(下記引用部の赤字部分)、これは三年の喪に服さなかったことを非難している意味合いがある、と『春秋公羊傳解詁』の著者である何休は指摘する。

【経】
四年,春,宋公使華元來聘。
三月壬申,鄭伯堅卒。
杞伯來朝。
夏,四月甲寅,臧孫許卒。
公如晉。
葬鄭襄公。
秋,公至自晉。
冬,城鄆。
鄭伯伐許。
(『春秋公羊傳』成公四年)

ただし、この三年の喪に服し終わってから爵位を天子から受けるという行為、この解釈は『春秋公羊傳』文公九年の傳に拠るものだと陳立は注釈で指摘する(下記引用部の赤字部分)。

【経】
九年春,毛伯來求金。

【傳】
毛伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?當喪未君也。逾年矣,何以謂之未君?即位矣,而未稱王也。未稱王,何以知其即位?以諸侯之逾年即位,亦知天子之逾年即位也。以天子三年然後稱王,亦知諸侯於其封內三年稱子也。逾年稱公矣,則曷為於其封內三年稱子?緣民臣之心,不可一日無君;緣終始之義,一年不二君,不可曠年無君;緣孝子之心,則三年不忍當也。毛伯來求金,何以書?譏。何譏爾?王者無求,求金非禮也。然則是王者與?曰:非也。非王者則曷為謂之王者?王者無求,曰:是子也。繼文王之體,守文王之法度,文王之法無求而求,故譏之也。
(『春秋公羊傳』文公九年)

これが『春秋左氏傳』の傳は以下のようになり、三年の喪云々ではなく、まだ先代の周王の葬儀が終わっていないことを理由に求めている。必ずしも三年の喪云々というわけではないが、『白虎通』本文では特に言及されていない。

【経】
九年,春,毛伯來求金。

【傳】
毛伯衛來求金,非禮也,不書王命,未葬也。
(『春秋左氏傳』文公九年)

この様に、ここに限らず春秋三伝は互いに解釈が微妙に異なることが少なくない。しかし、この『白虎通』において『春秋左氏傳』の説がさほど有力ではないのは、両漢代において『春秋左氏傳』が隆盛を迎えていなかったからである。『春秋左氏傳』の解釈が経学上有力となるためには、後漢末から魏晋期を待たねばならなかったようである。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (2)

大夫曰:「匈奴背叛不臣,數為寇暴於邊鄙,備之則勞中國之士,不備則侵盗不止。先帝哀邊人之久患,苦為虜所系獲也,故修障塞。飭烽燧,屯戍以備之。邊用度不足,故興鹽、鐵,設酒榷,置均輸,蕃貨長財,以佐助邊費。今議者欲罷之,内空府庫之藏,外乏執備之用,使備塞乘城之士饑寒於邊,將何以贍之?罷之,不便也。」

大夫とは御史大夫、つまり専売制や均輸制を実施した桑弘羊を指す。前段の文学の士の問題提起を受け、桑弘羊は対匈奴の戦いに多大な資金が必要であり、現在の制度が辺境の防備を維持するために必要不可欠であることを説いている。

尚、「烽燧を飭う」の意味については、『史記』司馬相如伝本文の「聞烽舉燧燔」の部分の注釈、『史記集解』と『史記索隱』がそれぞれ解説をしている。「飭う」は「整える」と同義で、整備するという意味合い。

漢書音義曰:「烽如覆米●,縣著桔槔頭,有寇則舉之。燧,積薪,有寇則燔然之。」
(『史記集解』,●=竹冠に「奥」の字)

「桔槔」とははねつるべのこと。『史記集解』の解説だと、烽ははねつるべの原理を生かした物らしいが、ちょっとイメージがわかない。火は使わないのだろうか。燧は薪を積んでおき、敵襲が来たらその薪を燃やして知らせる仕組み。

熢燧。韋昭 曰:「熢,束草置之長木之端,如挈皋,見敵則燒舉之。燧者,積薪,有難則焚之。熢主晝,燧主夜。」
(『史記索隱』)

「皐を挈えるが如く」をどのように解すれば良いか分からないが、熢は長木の端っこに草を束ねた物を置いておき、敵襲が来たらこれを焼いて挙げるという。松明みたいなものか?ちなみに熢は烽の異体字。一方、燧は『史記集解』とほぼ同じ解説である。熢は昼間、燧は夜間に使用する。

烽燧に関しての話が長くなってしまったが、端的に言えば膨大な軍事費用を賄うために専売・増税措置を採ったのが桑弘羊の経済政策である。

劉建輝『魔都上海―日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

これは1年半ほど前に以前のブログで紹介した書籍の再掲となる。

『魔都 上海』と題された本書は、上海に租界が成立した1845年から太平洋戦争による魔都としての上海が死滅する1942年(日本による租界接収)の約100年間の軌跡描いている。また、ちくま学芸文庫から再販されるのに伴い、国共内戦から今年の上海万博開催までの約50年の軌跡が増補された。言わば、この本は上海150年史である。

そもそも、何故上海が「魔都」と呼ばれるのか。上海に「魔都」と命名したのは村松梢風という人物であり、1924年に自らの上海における体験記を『魔都』という書物として出版した。魔都を魔都たらしめていたのは、租界成立以来育まれてきた、半ば独立した自由な気風である。「魔都」命名者の村松梢風は上海について次のように語る。

只、私を牽き付けるものは、人間の自由な生活である。其処には伝統が無い代りに、一切の約束が取り除かれてゐる。人間は何をしようと勝手だ。気随気儘な感情だけが生き生きと露骨にうごめいてゐる。(村松梢風『魔都』)

明治維新以降、天皇を中心とする均一な国民国家建設に邁進する日本と異なり、上海には様々な文化の混交した「クレオール」的性格を有していた。均一化の進む日本から離脱、脱落した多くが魔都上海にロマンを求めて移住するようになる。日本が租界を接収した1942年時点で租界人口240万人に対し、日本人を含む外国人移住者は15万人に達していた。

しかし、一方で上海にはもう一つの顔があった。それは伝統的な「県城」として上海であり、欧米列強による中国への「圧迫」を象徴していた。古くは幕末の頃に上海を訪れた高杉晋作、五代友厚らに日本のあるべき姿を考えさせるキッカケとなり、また明治以降開発の進む東京に対し、上海の「水郷」に嘗ての江戸時代の風景を郷愁する谷崎潤一郎らが存在した。

こうして近代日本に様々な影響を与えてきた上海だが、1937年8月の第二次上海事変、1941年12月の太平洋戦争開戦を経て徐々に租界は日本軍に接収されていくようになる。そして1942年に徹底した戸籍管理(実はそれまでの上海(租界)は厳密な戸籍管理が為されていなかった)や移動制限が着々と実施されると、上海を上海たらしめた「クレオール」的性格は消え去ってしまった。日本人がロマンの対象とした「魔都」としての上海はここに死んだのである。

以上、『魔都上海』の概要を大雑把に紹介した。本書は其れ以外にも情報発信センターとしての一面や、漢訳洋書の出版事情などが詳細に記されている。日本よりいち早く近代化を成し遂げた上海について知る好著だと思う。興味のある方はご一読願いたい。

班固『白虎通』巻一 爵 (2)

爵有五等,以法五行也。或三等者,法三光也。或法三光,或法五行何?質家者據天,故法三光。文家者據地,故法五行。《含文嘉》曰:「殷爵三等,周爵五等。」各有宜也。《王制》曰:「王者之制祿爵,凡五等。」謂公侯伯子男也。此據周制也。《春秋傳》曰:「天子三公稱公,王者之後稱公,其餘大國稱侯,小者伯子男也。」《王制》曰:「公侯田方百里,伯七十里,子男五十里。」所以名之為公侯者何?公者,通也。公正無私之意也。侯者,候也。候逆順也。人皆千乘,象雷震百里所潤同。伯者白也。子者,孳也。孳無已也。男者,任也。人皆五十里。差次功德。小者不滿為附庸。附庸者,附大國以名通也。百里兩爵,公侯共之。七十里一爵,五十里復兩爵何?公者,加尊二王之後;侯者,百里之正爵。上可有次,下可有第,中央故無二。五十里有兩爵者,所以加勉進人也。小國下爵,猶有尊卑,亦以勸人也。殷爵三等,謂公侯伯也。所以合子男從伯者何?王者受命,改文從質,無虛退人之義,故上就伯也。《尚書》曰:「侯甸任衛作國伯。」謂殷也。《春秋傳》曰:「合伯子男為一爵。」或曰:合從子,貴中也。以《春秋》名鄭忽,忽者,鄭伯也。此未逾年之君,當稱子,嫌為改伯從子,故名之也。地有三等不變,至爵獨變者何?地比爵為質,故不變。王者有改道之文,無改道之實。殷家所以令公居百里,侯居七十里,何也?封賢極于百里,其政也,不可空退人,示優賢之意,欲褒尊而上之。何以知殷家侯人不過七十里?曰:士有三等,有百里,有七十里,有五十里。其地半者其數倍,制地之理體也,多少不相配。

この段落は五爵・三爵に関して言及している。五爵とは公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵であり、周の制度に由来する。一方の三爵はは公爵、侯爵、伯爵であり、殷の制度に由来する。この爵位による違いの一つは所有する土地の面積であり、公爵と侯爵は百里を、伯爵は七十里、男爵と子爵は五十里四方の土地を有する。三爵の場合は上から順に百里、七十里、五十里四方をそれぞれ有する。

またそれぞれの爵位の名前の由来もこの段落に示されている。公(=通)は公正無私に由来し、侯(=候)は雷震の音が百里先まで達することからその影響力を象っている。伯(=白)は『風俗通』や『春秋元命苞』でも言及しているが、徳に関して明らかである意味を持つ。子(=孳)は子孫が尽きることなく続くことを指し、男(=任)は功業を立て住民を教化することを指す。ちなみに『春秋左氏傳』の賈逵の注釈や『孔子家語』の王肅の注釈では、男は古来「南」の字であったと指摘する。

なお漢文を全て手で打ち込むのは面倒なので、基本的にはWikisourceをコピペしているが、手持ちの陳立『白虎通疏證』(中華書局)で確認すると随分と本文が異なっている。Wikisourceの引用している版本が何であるかは不明なので、信頼可能なテキストの方に合わせている。これだけで結構な手間である。

日南郡の旧称について

TSさんが、象郡の名前の由来を募集していたので、探してみた。

『漢書』地理志の日南郡の箇所に以下の記述がある。

日南郡,故秦象郡,武帝元鼎六年開,更名。有小水十六,并行三千一百八十里。屬交州。

日南郡は秦の時代は象郡と称したらしい。何故この郡名かというと、『漢書補注』で王先謙が以下の注釈を加えている。

唐志因象山為名山形如象也。

この『唐志』という書物は恐らく『新唐書』か『舊唐書』の志を指すのであろうが、要は「象のような形の山があったから」というのが象郡の名前の由来のようである。

班固『白虎通』巻一 爵 (3)

公卿大夫者何謂也?內爵稱也。內爵稱公卿大夫何?爵者,盡也,各量其職,盡其才也。公之為言公正無私也。卿之為言章也,章善明理也。大夫之為言大扶,扶進人者也。故《傳》曰:「進賢達能,謂之卿大夫。」《王制》曰:「上大夫卿。」士者,事也。任事之稱也。故《傳》曰:「通古今,辯然否,謂之士。」何以知士非爵?《禮》曰:「四十強而仕。」不言「爵為士」。至五十爵為大夫。何以知卿為爵也。以大夫知卿亦爵也。何以知公為爵也?《春秋傳》曰:「諸侯四〓,諸公六〓。」合而言之,以是知公卿為爵。內爵所以三等何?亦法三光也。所以不變質文何?內者為本,故不改內也。諸侯所以無公爵者,下天子也。故《王制》曰:「上大夫,下大夫,上士,中士,下士,凡五等。」此謂諸侯臣也。大夫但有上下,士有上中下何?明卑者多也。爵皆一字也,大夫獨兩字何?《春秋傳》曰:「大夫無遂事。」以為大夫職在之適四方,受君之法,施之於民,故獨兩字言之。或曰:大夫,爵之下者也。稱大夫,明從大夫以上受下施,皆大自著也。天子之士獨稱元士何?士賤,不得體君之尊,故加元以別於諸侯之士也。《禮經》曰:「士見於大夫,」諸侯之士也。《王制》曰:「王者八十一元士。」天子爵連言天子,諸侯爵不連言王侯何?即言王侯,以王者同稱,為衰弱人替差生篡弒,猶不能為天子也,故連言天子也。或曰:王者天爵,王者不能王諸侯,故不言王侯。諸侯人事自著,故不著也。

ここでは公、卿、大夫、士の階層がが語られる。三国時代でお馴染みの三公、九卿、士大夫の呼び名のことであり、この公・卿・大夫・士を内爵と称する。

公が公正無私を意味することは前段落でも言及しているが、同様に卿は章かにする、大夫は大いに扶ける意味がある。そして少しランクが下がり、士は人に仕える意味がある。尚、天子に仕える士の階級を「元士」というのは、諸侯に仕える士の階級の人間と区別するためとされる。

ちなみに此処の段落では四十代で仕えて士となり、五十歳で爵は大夫に為るという記載がある。この年齢の記載から思い出されるのは、陽嘉元年に左雄が上言した以下の内容である。

雄又上言:「郡國孝廉,古之貢士,出則宰民,宣協風教。若其面牆,則無所施用。孔子曰『四十不惑』,禮稱『強仕』。請自今孝廉年不滿四十,不得察舉,皆先詣公府,諸生試家法,文吏課牋奏,副之端門,練其虛實,以觀異能,以美風俗。有不承科令者,正其罪法。若有茂才異行,自可不拘年齒。」帝從之,於是班下郡國。
(『後漢書』左雄伝)

ここから想像するに、所謂この『白虎通』で指している「士」の階級とは孝廉に推挙された者を指す。言い換えれば、士大夫は孝廉に挙げられ中央で仕える者の階層を指すのではないか、ということである。逆に言えば、孝廉に推挙されていない地方の郡県の官吏は士大夫の階層ではない、ということになる。

そんなわけで、この段落から士大夫の意味が何となく理解できるのである。

建安十二年の論功行賞について

十二年春二月,公自淳于還鄴。丁酉,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。(『三國志』武帝紀)

建安十二年二月の『三國志』武帝紀の記事。曹操が袁譚・袁熙・袁尚兄弟を倒して河北を平定したことを受けての発言。この丁酉の日に発表された令を清の厳可均『全三国文』は「封功臣令」と題して収録している。この論功行賞の筆頭は荀彧、次点が荀攸。この本文では「皆為列侯」と記されているが、筆頭の荀彧は既に

八年,太祖錄彧前後功,表封彧為萬歲亭侯。(『三國志』荀彧伝)

とあって建安八年には既に亭侯に封じられているため、今回の論功行賞で奉邑が千戸から二千戸に増邑した。同様に次点の荀攸も河北平定の過程で陵樹亭侯に封じられているため、奉邑が三百戸から七百戸に増邑している。さて、このような感じでこの一斉に行われた論功行賞に与った二十数名を探そうとすると、以下のような具合になる。増減や爵位の変化は「→」で表現する。また、官職の移動だけで爵位の進爵・増邑が確認できない者(賈詡など)は除外している。夏侯惇や程昱、張遼らはこの一斉に行われたタイミングで進爵されたのか不明確であるが、時期的にそうだろうと勝手に判断している。また、郭嘉は封功臣令が発布されたときには既に故人だが、どうやらこの封功臣令の恩恵に与っているようなので記載した(実際には息子の郭奕が嗣いでいる)。

名前 奉邑 爵位
荀彧 千戸→二千戸 萬歲亭侯
荀攸 三百戸→七百戸 陵樹亭侯
夏侯惇 七百戸→二千五百戸 高安鄉侯
曹仁 ?→都亭侯
曹純 ?→三百戸 ?→高陵亭侯
程昱 ?→安国亭侯
郭嘉 二百戸→千戸 洧陽亭侯
董昭 ?→千秋亭侯
張既 ?→武始亭侯
張遼 ?→都亭侯
李典 ?→二百戸? ?→都亭侯
許褚 ?→関内侯

当然ながらこれでは二十名に満たない。傾向として郷侯、亭侯、都亭侯、関内侯に封じられた人が史書に載るので、二十等爵の中でそれに満たないランク(つまり第十八級の大庶長以下)で進爵した人は恐らく記載されないのであろう。河北平定に功績があって進爵のことが史書に記載されていない人物は賈詡を始めとして他にも色々居る。こういった人たちは、進爵後も大庶長以下の爵位であったと仮定した方が適当なのだろう。

それにしても、大庶長と関内侯の間には史書に記すか記さないかの厳然たる区別でもあるのか。「○○は大上造に爵を進めた」と言った記述は見かけたことがないので、そういう暗黙の決まり事なのだろうか。

後漢時代のお給料

『後漢書』百官志には後漢成立間もない建武二十六年の官僚の給料が掲載されている。給料のことを「奉」と称し、基本的には斛単位で表現される。実際は半銭半穀だったと記されており、穀物だけで支給されたわけではないようだ。尚、後漢時代は一斛=19.8L(参考)。

官位 米/月 容量換算 代表官職
大将軍・三公 三百五十斛 6,930L 大将軍、三公
中二千石 百八十斛 3,564L 九卿
二千石 百二十斛 2,376L 太守、大長秋
比二千石 百斛 1,980L 中郎将、校尉
千石 八十斛 1,586L 御史中丞、県令
六百石 七十斛 1,386L 州刺史、尚書令
比六百石 五十斛 990L 中郎
四百石 四十五斛 891L 県長(大)
比四百石 四十斛 792L 侍郎
三百石 四十斛 792L 県長(小)
比三百石 三十七斛 732.6L 郎中
二百石 三十斛 594L 太子舎人
比二百石 二十七斛 534.6L  
百石 十六斛 316.8L 郷三老
斗食 十一斛 217.8L  
佐史 八斛 158.4L  

これが延平年間(殤帝期)になると、以下のように変化する。出典は荀綽『晋百官表注』。表現は銭+斛数で表現されていたので、それに倣っている。記載のないところは「―」と表記した。

官位 米/月 容量換算 銭/月
大将軍・三公
中二千石 七十二斛 1,425.6L 九千銭
真二千石 三十六斛 712.8L 六千五百銭
比二千石 三十四斛 673.2L 五千銭
一千石 三十斛 594L 四千銭
六百石 二十一斛 415.8L 三千五百銭
比六百石
四百石 十五斛 297L 二千五百銭
比四百石
三百石 十二斛 237.6L 二千銭
比三百石
二百石 九斛 178.2L 千銭
比二百石
百石 四斛八斗 95.04L 八百銭
斗食
佐史

さて、問題はこの延平年間は建武年間と比較してどれくらい違うのかと言うことである。山田勝芳氏の論考では一斛=百銭程度と仮定しているのでこれを踏襲すると、延平年間は穀物換算で若干給与は目減りしているのかな、程度だと考えられる。当然、山田氏の論考にあるとおり収穫状況によってある程度の価格の揺れは起きうるし、ネット上でもJominian氏が言及する通りである。が、今はそこまで追求するつもりがないことをご了承願いたい。

これがどれくらいの感覚なのかよくわからないので今のお米価格で換算をしてみよう。学問的には意味がないけど感覚的な意味で、である。社団法人 米穀安定供給確保支援機構が公表している平成23年11月時点の全国平均価格は玄米1俵(約72L)で15,178円である。これを後漢時代の一斛で換算すると、凡そ4,172円である。太守クラスの人は毎月百二十斛の穀物を給与として得ていたのだから、単純計算すると月給50万円、年収に直すと600万円である。年収ラボの統計を参考にすると、東京都の住民の平均収入レベルらしい。

いや、ちょっとまて。それだと小規模な県に赴任した県長は月給約16.7万円(年収200万円)となり、高校新卒クラスの給与(岐阜県)になってしまうではないか。もっとも、こういった役職に就ける人物は豪族であることが多いので、荘園からの収入も充分あるはずである。これだけで家計をやりくりしているわけではない。よって高校新卒レベルの給与だったとしても問題ない…のかも知れない。

段々とやっていて収拾が付かなくなってしまったが、後漢時代の太守クラス=東京都の住民の平均年収ということで今回の結論としたい。随分と変な結論になってしまったが。

班固『白虎通』巻一 爵 (6)

庶人稱匹夫者,匹,偶也。與其妻為偶,陰陽相成之義也。一夫一婦成一室。明君人者,不當使男女有過時無匹偶也。《論語》曰:「匹夫匹婦。」

庶人のことを「匹夫」と称することの由来。匹夫の匹は「偶」、つまり陰陽(この場合は夫と妻)が対となることを意味するという。この段落の文章を読むに、庶人は妾を擁するような階層(士大夫層?)とは別階層であることが示唆される。だからであろうか、よく歴史小説やマンガで「匹夫!」と罵倒するのを見掛けるが、これは「この下層階級の人間め!」(おまえは士大夫の階層に相応しい人間じゃない、みたいな解釈)ということを意味するからこそ、将軍である士大夫層に対する罵倒として機能するのかも知れない。三國志で張飛が劉巴から「兵子」と罵られたような感じで。

また、為政者は「当に男女時を過ぎて偶匹無きを有らしむべからず也」といい、庶人が婚期を迎えても相方が居ないような事態を作らぬよう戒めている。陳立の注釈を参照すると、この部分は

使男女無夫家者會之。(男女、夫無き家は之を会せしむ。)
(『周禮』媒氏篇)

に対応しているという。人口の多さが国力の源泉である以上、人口を殖やす政策は為政者として重要な命題だったのであろう。

班固『白虎通』巻一 爵 (8)

大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。《春秋穀梁傳》曰:「追錫死者,非禮也。」《王制》曰:「葬從死者,祭從生者」,所以追孝繼養也。葬從死者何?子無爵父之義也。《禮中庸》記曰:「父為大夫,子為士,葬以大夫祭以士;子為大夫,父為士,祭以大夫葬以士也。」

追爵に関する記事。冒頭は「大夫功成りて未だ封ぜざるに而して死し、爵賜を追って得ざるの者、以て其れ股肱に当たらざる也。」とでも書き下せば良いだろうか。その次に引用されている『春秋穀梁傳』の記事は莊公元年の記事で、

【経】王使榮叔來錫桓公命。
【伝】禮有受命,無來錫命。錫命非正也。生服之,死行之,禮也。生不服,死追錫之,不正甚矣。
(『春秋穀梁傳』莊公元年)

が元々の本文。天子から爵を賜るのは生前に天子に服事した結果であって、生前に服事していない者が爵を賜るのは礼に反しているではないか、と『春秋穀梁傳』では難じているのである。ただし、これは今文学の立場としての批判であって、古文学を代表する『春秋左氏傳』では

【経】王使榮叔來錫桓公命。
(『春秋左氏傳』莊公元年)

と記すのみで、許愼『五経異義』が以下で指摘するように、死後に追錫すること自体を非難していない。*1

春秋公羊、穀梁説,王使榮叔錫魯桓公命,追錫死者,非禮也。死者功可追而錫,如有罪,又可追而刑耶?春秋左氏説譏其錫簒弑之君,無譏錫死者之文也。
(『通典』引『五経異義』)

この事実から陳立は、『白虎通』に記載の説は『春秋穀梁傳』に基づくものだろうとしている*2

さて、『禮記』王制篇の「葬は死者に従い、祭は生者に従え。」の実例は『中庸』に記されている。つまり、父と息子の階層が異なった場合、葬儀は父の階層、祭は息子の階層で実施すると言うことである*3

註3について、goushu氏から以下のご指摘があった。どうやら、私は陳立の注釈を逆に読み違えていたようです。ご指摘、感謝いたします。

注3の部分だけど、前の部分で「天子・諸侯の若(ごと)きは但だ祖父を追爵するを得ざるのみ。喪葬の事に至りては、亦た宜しく権に従うべし」とあって天子諸侯クラスは士大夫と違って葬式に関しては礼の規定から外れるんだと言っていて、そこで引用部分は漢の高祖と太上皇も例を引き合いに出しつつ、太上皇を天子の服ではなく士の服で葬儀を行うのは、子の高祖や臣下の情として受け入れがたいので、礼を曲げて天子の服で葬式を行う。その後の通常の祖先祭祀の場合は礼の規定どおり士の服で行う。と言っているんじゃないかと思います。

*1:他にも死後に追錫された例は、『春秋左氏傳』昭公七年の伝に記載の衛襄公がある。

*2:それが「追錫死者,非禮也。」のみなのか、「大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。」まで掛かってくる注釈なのかは判然としない。

*3:陳立は葬礼に関する様々な議論を引用しながら、「若然,則禮父為士,子為天子,祭以天子,其尸服以士服者,葬時之不可直士庶之制者,禮屈于情,一時之權。至祭時,乃人子之常事,而尸則死者之所憑,又不可服以天子之服,則仍依父生時之制也。」と述べ、たとえ天子であっても父が士庶の階層であったならば、葬は士庶の服で執り行うべきとしている。