狩野直禎『後漢政治史の研究』(同朋舎出版)

後漢政治史の研究 (東洋史研究叢刊)

後漢政治史の研究 (東洋史研究叢刊)

文字通り後漢時代の中央政界の動向に焦点を当てた文献。

全体の分量の4割前後は光武帝が統一するまでのプロセスで占められており、新末後漢初時代の各独立勢力の動向について纏めているのが特徴的である。その後、章帝期までは宗族や三公の動向を交えながら全体的な流れを追っている。しかし皇帝親政の時期が終焉し、外戚が権勢を握るようになった頃から執筆のスタンスが変わり、当時の名臣(第五倫、張皓、楊震、李固、劉陶、趙岐など)の動向に焦点を当て、当時の政治動向を解説している。

論文の執筆年代、内容からして東晋次『後漢時代の政治と社会』が似たようなテーマを志向しているため、セットで読むのが面白いと思う。互いに互いの論考に言及している。

後漢時代の研究を着手するに辺り、政治的な動きを把握したい場合には読む価値があるのではないかと考える。ただし異民族、特に羌と匈奴についてはそれぞれ佐藤長『チベット歴史地理研究』、内田吟風『北アジア史研究―匈奴編』に詳述されているとして、大きく触れられてはいない。その為、この時代の羌や匈奴について専門的に調べる場合は、本書ではなくて先に挙げた2冊を参照すると良いと思う(ただし容易に手に入る環境ではないと思う)。

梁過『現代中国「解体」新書』(講談社現代新書)

現代中国「解体」新書 (講談社現代新書)

現代中国「解体」新書 (講談社現代新書)

現代中国を読み解く63キーワードをピックアップ。そして各キーワードごとに3,4ページ前後の分量で解説がされている。

一応、ある程度各章別にテーマがあることはあるが、通読しても良いしキーワードごとに拾い読みをしても良い。そんな気軽な本である。

日頃から中国国内のニュースに着目するチャイナウォッチャーであれば目新しくもない記事が散見されるかも知れないが、そうでなければ現代中国人の生活事情を手っ取り早く知るためには大変に時事的で有用だろう。

肩肘を張らず、ながら読書程度がこの本に接する態度としてはちょうど良い。

班固『白虎通』巻九 姓名 (1)

人所以有姓者何?所以崇恩愛,厚親親,遠禽獣,別婚姻也。故紀世別類,使生相愛,死相哀,同姓不得相娶者,皆為重人倫也。姓者,生也。人稟天氣所以生者也。《詩》云:「天生蒸民。」《尚書》曰:「平章百姓。」姓所以有百者何?以為古者聖人吹律定姓,以紀其族。人含五常而生,正聲有五,宮、商、角、徴、羽,轉而相雜,五五二十五,轉生四時異氣,殊音悉備,故姓有百也。

姓が何で存在するのか、ということに対する見解。曰く「恩愛を崇め、親を親しくするを厚くし、禽獣から遠ざけ、婚姻を別にする所以なり」ということ。そして生を相愛しみ、死を相哀しみ、同姓を娶ることが無いように「世を紀して類を別つ」ことで人倫を重んじるようにすると。ちなみに「紀=記」。

詩経に曰く「天は蒸民を生む」といい、尚書では「百姓を平章す」という。蒸民は多くの民、平章は公平に治めるの意味(『漢字源』調べ)。姓は古の聖人が定めたのだが、何で百姓なのかというと、【五常×五声×四時】で掛け合わせると合計百。だから百姓。

五常は普通であれば仁・義・礼・智・信の徳目を指すと思うのだが、陳立『白虎通疏証』の注釈で『潛夫論』卜列篇の下記部分が引用されていることから、どちらかと言えば五行を指すと考える。

古有陰陽,然後有五行,五行各據行氣以生,世遠乃有姓名。是故凡姓之有音也,必隨其本生祖所土也。太皞木精,承歲而王,夫其子孫鹹當為角。神農火精,承熒惑而王,夫其子孫鹹當為徴。黄帝土精,承鎮而王,夫其子孫鹹當為宮。少皞金精,承太白而王,夫其子孫鹹當為商。顓頊水精,承辰而王,夫其子孫鹹當為羽。雖號百變,音行不易。
(『潛夫論』卜列篇)

五声は本文に書いてある通り各音階を示し、四時は春夏秋冬。記憶が確かなら五行って五声とか四時を各々対応させていたから、それぞれ掛け合わせるのは不自然な気もするんだけど、まぁそういうことらしい。

とにかくここで重要なのは、姓を作った理由は同姓不婚の原則を徹底させることが第一義にあるということ。これが禽獣と人倫を区別するポイント。陳立の注釈には色々書いてあるけど、ここら辺を押さえておけば良いのかなと思う。

班固『白虎通』巻九 姓名 (2)

所以有氏者何?所以貴功徳,賎伎力。或氏其官,或氏其事,聞其氏即可知其徳,所以勉人為善也。或氏王父字何?所以別諸侯之後,為興滅国、継絶世也。王者之子称王子,王者之孫称王孫,諸侯之子称公子,公子之子称公孫,公孫之子各以其王父字為氏。《論語》有王孫賈,又有衛公子荊、公孫朝,魯有仲孫、叔季、季孫,楚有昭、屈、景,斉有高、国、崔。以知其為子孫也。王者之後,亦称王子,兄弟立而皆封也。或曰:王者之孫,亦称王孫也。《刑徳放》曰:「堯知命,表稷、契,賜姓子、姫。皐陶典刑,不表姓,言天任徳遠刑。」禹姓娰氏,祖昌意以薏苡生。殷姓子氏,祖以玄鳥子生也。周姓姫氏,祖以履大人跡生也。

三国時代ばかりやっていると縁が薄い「氏」だが、春秋戦国時代をやるとよく出てくる。『春秋左氏傳』を読む際によくわからない項目の一つとして個人的に挙げても良いくらいだ。

この氏についてだが、本文に拠れば「功徳を貴び、伎力を賎しむ所以たり。或る氏は其の官、或る氏は其の事たれば、其の氏を聞かば即ち其の徳を知るべく、人善為すを勉むる所以なり。」とする。わかったようなわからないような記述だが、この意味は陳立『白虎通疏証』の注釈に詳述されている。陳立はまず、以下の文献を引用する。

氏者,所以別子孫之所出也。
(鄭玄『駁五経異義』)

凡言氏者,世其官也。
(干寶『周礼注』)

春秋左氏伝『官有世功,則有官族』
(応劭『風俗通』)

つまり、氏とは祖先の功績に由来した族姓である。陳立はこの族姓には九つのパターンがあると述べる。そのパターンは

  1. 號〔例〕唐、虞、夏、殷
  2. 諡〔例〕載、武、宣、穆
  3. 爵〔例〕王、公、侯、伯
  4. 國〔例〕曹、魯、宋、衛
  5. 官〔例〕司徒、司寇、司空、司城
  6. 字〔例〕伯、仲、叔、季
  7. 居〔例〕城、郭、園、池
  8. 事〔例〕巫、卜、陶、匠
  9. 職〔例〕三烏、五鹿、青牛、白馬

であり、以前の記事で紹介した姓とは異なるものである。故に氏が同じでも姓が異なれば結婚できたし、逆に氏が異なっていても姓が同じであれば結婚はできない。だがこれも後世には氏と姓が共通してしまう。『春秋左傳注』の著者である楊伯峻氏は、隠公八年の記事の中で以下のように述べ、実際に氏姓の由来を区別して正確に推断することは難しいとしている。

上古姓氏起源具體状況已難推斷,不但以上各種解釋皆屬臆測,則衆仲天子賜姓之說亦是據當時傳說與典禮而為之辭,恐亦未必合於太古状況。
(楊伯峻『春秋左傳注(修訂版)』隠公八年の伝の注釈より引用)

さて、王や諸侯の場合は氏に法則があり、王の子は王子氏、王の孫は王孫氏、諸侯の子は公子氏、諸侯の孫は公孫氏である。『春秋』で公子某、公孫某の名前をよく見掛けるのはこの法則に由来する。公孫氏の次の世代になると、氏は祖父の字を採る。例えば鄭の公子去疾は穆公の子であり、字は子良である。その為、公子去疾の孫(公孫輒の子)は良氏を名乗って良霄、良霄の子は良止、と続いていく。後世になると先に述べたように氏姓の区別がなくなり、この良氏がそのまま姓に変化する。

秦漢以降を考えるのであれば、氏姓の区別を明確に把握している必要はないかも知れないが、春秋戦国時代を取り扱うのであれば覚えておく必要のある知識だろう。実際、この知識が無くても『三国志』や『晋書』、『後漢書』を読むのには支障が無いのであるから。

班固『白虎通』巻九 姓名 (3)

人必有名何?所以吐情自紀,尊事人者也。《論語》曰:「名不正則言不順。」三月名之何?天道一時,物有其変,人生三月,目煦亦能咳笑,与人相更答,故因其始有知而名之。故《礼服伝》曰:「子生三月,則父名之于祖廟。」於祖廟者,謂子之親廟也。明当為宗廟主也。一説名之于燕寝。名者,幼小卑賎之称也。質略,故于燕寝。《礼内則》曰:「子生,君沐浴朝服,夫人亦如之。立於阼階西南,世婦抱子升自西階,君命之,嫡子執其右手,庶子撫其首。君曰『欽有帥』。夫人曰『記有成』。告于四境。」四境者,所以遏絶萌芽,禁備未然。故《曾子問》曰:「世子生三月,以名告于祖檷。」《内則記》曰:「以名告于山川社稷四境。天子太子,使士負子於南郊。」以桑弧蓬矢六射者,何也?此男子之事也。故先表其事,然後食其禄。必桑弧何?桑者,相逢接之道也。《保傅》曰:「太子生,挙之以礼,使士負之有司斉粛端〓,之郊見于天。」《韓詩内伝》曰:「太子生,以桑弧蓬矢六,射上下四方。」明当有事天地四方也。殷以生日名子何?殷家質,故直以生日名子也。以《尚書》道殷家太甲、帝乙、武丁也。于臣民亦得以甲乙生日名子何?不使亦不止也,以《尚書》道殷臣有巫咸,有祖己也。何以知諸侯不象王者以生日名子也?以太王名亶甫,王季名暦,此殷之諸侯也。《易》曰「帝乙」,謂成湯。《書》曰:「帝乙」,謂六代孫也。湯生於夏時,何以用甲乙為名?曰:湯王後乃更変名,子孫法耳。本名履,故《論語》曰:「予小子履」。履,湯名也。不以子丑為名何?曰:甲乙者,榦也。子丑者,枝也。榦為本,本質,故以甲乙為名也。名或兼或単何?示非一也。或聴其声,以律定其名。或依其事,旁其形。故名或兼或単也。依其事者,若后稷是也。棄之,因名為棄也。旁其形者,孔子首類丘山,故名為丘。或旁其名為之字者,聞名即知其字,聞字即知其名,若名賜字子貢,名鯉字伯魚。《春秋》譏二名何?所以譏者,乃謂其無常者也。若乍為名,禄甫元言武庚。 不以日月山川為名者,少賎卑己之称也。臣子当諱,為物示通,故避之也。《礼》曰:「二名不偏諱。逮事父母則諱王父母,不逮父母則不諱王父母也。君前不諱,詩書不諱,臨文不諱,郊廟中不諱。」又曰:「君前臣名,父前子名」謂大夫名卿,弟名兄也。明不諱于尊者之前也。太古之世所不諱者何?尚質也。故臣子不言其君父之名。故《礼記》曰:「朝日上質不諱正天名也。」人所以十月而生者何?人,天子之也。任天地之数五,故十月而備,乃成人也。人生所以位何?本一幹而分,得気異息,故泣重離母之義。《尚書》曰:「啓呱呱而泣」也。人拝所以自名何?所以立号自紀。礼,拝自後,不自名何?備陰陽也。人所以相拝者何?所以表情見意,屈節卑体,尊事人者也。拝之言服也。所以必再拝何?法陰陽也。《尚書》曰:「再拝稽首」也。必稽首何?敬之至也,頭至地。何以言首?謂頭也。《礼》曰:「首有瘍則沐。」所以先拝手,後稽首何?名順其文質也。《尚書》曰:「周公拝手稽首。」

名前に関する項目。凄く長いが、落ち着いて読めば何と言うことはない…はず。

まず天子や諸侯の場合、子供が生まれると夫婦そろって沐浴し、正装に着替える。そして夫は自宅の階段の西南側に立ち、妻は子供を抱いて西側に立つ。生まれた子供が嫡子ならば子供の右手を執り、庶子ならば其の首を撫でる。そして子供が生まれたことを四境、則ち周囲に告げる。その後、生まれてから親が子供を名付けるまで三ヶ月待つ。というのも三ヶ月も待てば子供に表情が産まれ、其の人相を見て名付けるからだという。名付けたらその子の名を祖廟に報告する。これが一連の流れである。

その後、何で殷代では王の名前が甲乙丙なのか…といった話がしばらく続き(面倒なので省略する)、名付け方の実例に入る。最初に言及するのは孔子サマこと孔丘であるが、何故「丘」が名前になったのかというと、首が丘のようだったからだという。そう言われてもサッパリ意味がわからないので陳立の注釈を見ると、「孔子首四方高,中央下,有似于丘,故取名焉。(孔子の首は四方が高く、真ん中が下っていて、丘に似ているので、その名を取ったのである)」とある。やっぱりわからない。誰か絵で説明してくれ…

名と字(次段落で説明)は意味的に相応の関係でなければならず、「賜⇔子貢(賜も貢も人に与える意味がある)」「鯉⇔子魚(両方とも魚)」のような感じである。尚、『春秋公羊傳』に限ってであるが、2つの名前を持つこと(途中で改名すること)は礼に反するとして難じられる(2文字の名前は大丈夫だし、『春秋左氏傳』の立場ではそもそも2つ名を禁じていない)。

また、名前を人前で用いることは忌むべき事とされるが、例外とされる事例が幾つかある。

  • 君主の前
  • 目上の人間の前
  • 詩を書する時
  • 文に臨む時
  • 郊廟の最中

あとは省略するが、人前で稽首する理由と意味を最後に述べ、名前に関する記述は終了する。名前は正に本人を表現するのであり、昔も今も軽々しく考えてはならない。正しく「名は体を表す」のである。

班固『白虎通』巻九 姓名 (4)

人所以有字何?所以冠徳明功,敬成人也。故《礼士冠経》曰:「賓北面,字之曰伯某甫。」又曰:「冠而字之,敬其名也。」所以五十乃称伯仲者,五十知天命、思慮定也。能順四時長幼之序,故以伯仲号之。《礼檀弓》曰:「幼名冠字,五十乃称伯仲。」《論語》曰:「五十而知天命。」称号所以有四何?法四時用事先後,長幼兄弟之象也。故以時長幼号曰伯仲叔季也。伯者,長也。伯者,子最長迫近父也。仲者,中也。叔者,少也。季者,幼也。適長称伯,伯禽是也。庶長称孟,魯大夫孟氏是也。男女異長,各自有伯仲,法陰陽各自有終始也。《春秋伝》曰:「伯姫者何?内女也。」婦人十五称伯仲何?婦人質少変,陰道促蚤成,十五通乎織紝紡績之事,思慮定,故許嫁,笄而字。故《礼経》曰:「女子十五許嫁,笄。礼之称字。」婦人姓以配字何?明不娶同姓也。故《春秋》曰:「伯姫帰于宋。」姫者,姓也。質家所以積于仲何?質者親親,故積于仲。文家尊尊,故積于叔。即如是,《論語》曰:「周有八士,伯達、伯适,仲突,仲忽,叔夜,叔夏,季随,季騧。」不積于叔何?蓋以両両倶生故也。不積于伯、季,明其無二也。文王十子,《詩伝》曰:「伯邑考,武王発,周公旦,管叔鮮,蔡叔度,曹叔振鐸,成叔処,霍叔武,康叔封,南季載。」所以或上其叔、季何也?管、蔡、霍、曹、霍、成、康、南皆採也,故置叔、季上。伯邑考何以独無乎?蓋以為大夫者不是採地也。

姓名に関する記述の最後。字に関する話題。字を有する所以は「徳を冠し功を明らかにし、成人を敬う所以なり」ということで、言い換えれば相手に対する敬意である。周代の頃は50歳を過ぎると20歳の頃の字を捨て、敬意を以て「伯仲」を字とする習慣があったらしい。「所以五十乃称伯仲者…」の件はその習慣に由来する。

字のルールに関してはネット上で広く論じられているので今更繰り返す必要もないと思うが、とりあえず述べておく。兄弟の長幼によって字に関する文字が変わる。年長から順に伯、仲、叔、季。嫡子は「伯」の字を用いるが、庶長子の場合は「孟」の字を字に用いる。

女性は15歳で一人前となって嫁に嫁いでも問題なくなる為、成人(笄)する。男性と異なり家門を表す氏ではなく姓を用いた「字+姓」の構成になるのは、同姓不婚の原則を貫く為。

最後の箇所は解釈にイマイチ自信が無いのだが、『詩伝』で引用する管叔鮮以下は基本的に「姓+叔or季++名」の構成になっいて、どうやら是が周代のルールだったらしい。一方、「伯邑考」に叔や季の字を置いていないのは、「伯邑考は大夫の階層だから、そんなルールには縛られない!」ということらしい。ここから読み取れるのは、周代における姓名の呼称は漢代以降と必ずしも同一では無さそうだ、ということである。もちろん、昔ながらの名残が続いていることもあるだろうが、そうでないことも意識ながら読まないといけない。

姓名に関しては他に『禮記』を筆頭に参考となる書籍が色々あるので、これらを参照しながら当時の実情を勘案しつつ調べていかないといけない。『白虎通』一冊だけで簡単に判断できるものではないのだ(という言い訳で〆)。

『晋書』唐彬伝

唐彬字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬, 好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦恱經史,尤明易經,隨師受業,還家教授, 恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。

彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽恱,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見唐彬,卿受蔽賢之責矣。」

初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞衆力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」

俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。

後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為衆軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍唐彬受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啓戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。

北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征 鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。

彬初受學於東海閻德,門徒甚多,獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。

元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹, 錢二十萬。長子嗣,官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。

まず書き下し文。例の如く、怪しいところもあるので注意して下さい。

 唐彬字は儒宗、魯国鄒の人なり。父の唐台、太山太守たり。唐彬は経国大度有るも、而して行検拘らず*1。少くして弓馬を便とし、游猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び*2、力の強きこと人を兼ぬ。晩なれば乃ち経史を敦く悦び、尤も『易経』に明かたりて、師に随いて業を受け、家に還りて教授すること恒に数百人*3。初め郡の門下掾と為り、転じて主簿たり。刺史王沈は諸参佐を集め、盛んに距呉の策を論じ、以て九郡の吏に問う。唐彬と譙郡主簿の張惲は倶に呉兼ねる可きの勢い有るを陳し、王沈は其の対を善しとす*4。又唐彬に呉未だ伐つ可からずを難言せしむるは、而して辞理皆屈す*5。還って功曹に遷り、孝廉に挙げられ、州は(唐彬を)主簿に辟し、累遷して別駕に遷る。
 唐彬は忠粛公亮、尽規匡救、諫を顕さず以て自ら彰かにす。又奉使相府の計事に詣で、時に僚佐皆当世の英彦なるも、唐彬を見るに欽み悦ばざるは莫し*6。之を文帝*7に称するや、帝は其の参軍孔顥に問うを以てす。孔顥其の能を忌みて久しく答えざるを良しとす*8。陳騫坐に在りて、板に斂して而して称して曰く、「唐彬の為人、陳騫に勝りて甚だ遠し。」帝笑いて曰く、「但能く卿の如きは固より未だ得易からざるに、何ぞ勝を論じるや。」因りて唐彬を辟して鎧曹属と為る。帝問うて曰く、「卿何を以て辟に致すか?」対して曰く、「陋巷に修行し、古人の遺迹を観、言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。」帝は四坐を顧みて曰く、「名は虚行たらず。」他日、孔顥に謂いて曰く、「近くで唐彬を見るに、卿は蔽賢の責を受くべし。*9
 初め、鄧艾の誅するや、文帝鄧艾が久しく隴右に在るを以て、素より士の心を得る。一旦夷滅し*10、辺情騒動を恐れ、唐彬を使して密かに之を察せしむ。唐彬還り、帝に白して曰く、「鄧艾は詭狭に克つを忌み、能を矜り才を負い、順従なる者は見事と為し、直言なる者は之迕に触れると謂う*11。」長史司馬、参佐牙門と雖も、答対が指を失せば、輒ち罵辱せらる*12。身を処するに礼無く、大いに人心を失す。又行事役を施すのを好み*13、数しば衆の力を労す。隴右甚だ之を患苦し、其の禍を聞きて喜び、用を為すを肯じえず。今諸軍已に至らば、以て内外を鎮圧するに足り、願わくば以て慮を為す無かれ*14。」
 俄に尚書水部郎に除せらる*15。泰始の初め、関内侯を賜爵せらる。出でて鄴県令を補し、唐彬は徳を道き礼を斉え、期月にて化成す。弋陽太守に遷り、禁防を設けるに明るく、百姓之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東を呉寇に接するも、監軍の位を欠き、朝議して武陵太守楊宗及び唐彬を用いんとす。武帝*16は以て散騎常侍の文立に問い、文立曰く、「楊宗、唐彬倶に失す可からず。然るに唐彬は財欲多く、而して楊宗は酒を好み、惟陛下之を裁せよ。」帝曰く、「財欲は足るべきも、酒は改め難し。」遂に唐彬を用う*17。尋ね又詔して唐彬を監巴東諸軍事とし、広武将軍を加う*18。征呉の策を上し、甚だ帝の意と合す。
 後に王濬と共に呉を伐し、唐彬は衝要に屯拠し、衆軍の前駆と為る。毎に疑兵を設け、機に応じて勝を制す、西陵、楽郷を陥とし、多く擒獲する所とす。巴陵、沔口以東より、諸賊集まる所、震懼せざる莫く、戈を倒して肉袒す*19。唐彬は賊寇已に殄するを知り、孫皓将に降らんとするに、未だ建業二百里至らず、疾と称して遅留し、競わざるを示すを以てす*20。果たして先に到る者有らば物を争い、後に到る者は功を争い、時に有識は唐彬の此の挙を高せざる莫し。呉平らぎ、詔して曰く、「広武将軍唐彬は方隅の任を受け、呉寇を東御し、南は蛮越に臨み、疆埸*21を撫寧し、綏御の績有り。又毎に慷慨し、志は功を立つるに在り。頃は征討、疾くと奉命を扶け、首め*22に戎行を啓き、俘を献じ馘を授け*23、勲効顕著たり。其れ唐彬を以て右将軍、都督巴東諸軍事と為す。」徴せられて翊軍校尉を拝し、上庸県侯に改封せられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜せらる。朝に疑議有らば、毎に参与す*24
 北虜北平を侵掠し、唐彬を以て使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右将軍と為す。唐彬既に鎮に至り、卒を訓して兵を利し、農を広くし稼を重ね、威震いて武耀き、国命を宣喩し、恩信を以て示す。是に於いて鮮卑二部大莫廆、擿何等並びに侍子を遣わせ入貢せしむ。学校を兼修し、誨誘倦むこと無く、仁恵は広く被る。遂に旧境を開拓し、地を却くこと千里。復た秦の長城を塞ぎ、温城より碣石に洎び*25、山谷は且に三千里に綿亙*26せんとし、軍を分けて屯守し、烽堠して相望む。是に由り辺境は安を獲、犬吠の警無く、漢魏より征鎮之比する莫し。鮮卑諸種畏懼し、遂に大莫廆を殺す。唐彬之を討たんと欲するも、上に列ね報を俟てば虜は必ずや逃散するを恐れ*27、乃ち幽冀の牛馬を発す*28。参軍の許祗は密かに之を奏し*29、詔して御史を遣わし檻車に唐彬を徴して廷尉に付すも、事を以て直して釈せらる*30。百姓は唐彬の功徳を追慕し、生きて碑を立て頌を作るを為す*31
 唐彬は初め学を東海の閻徳に受け、門徒甚だ多くも、唐彬は廊廟の才*32有りと独り目せらる。唐彬官成ずるに及ぶも、而して閻徳已に卒し*33、乃ち為に之の碑を立つる。
 元康初め、使持節、前将軍、領西戎校尉、雍州刺史を拝す。教を下して曰く、「此の州名は、士人林藪*34。処士の皇甫申叔、厳舒龍、姜茂時、梁子遠達、並びに志節清妙にして、履行高潔。境を践みて風を望み、虚心にして饑渇し、加を思い致を延べ*35、以て不臣の典を待つ*36。幅巾相見え、道を論ずるのみにして、豈に吏職を以てし、染を屈して規を高くせんとするか。郡国礼を備えて遣いを発し、以て邑の望に副う。」是に於いて四人皆到り、唐彬を敬い而して之を待す。元康四年卒官し、時に年六十、諡曰く襄、絹二百匹、銭二十万を賜う。長子の唐嗣、官は広陵太守に至る。少子の唐岐、征虜司馬たり。

部分部分でわからないところがあったが、特に晩年で教を下した辺りはわからなかった。アレはきっとどこかの四書五経あたりが出典のはず。わかる人にはわかるのでしょう。雍州のあの4名って所謂竹林の七賢の亜流だったりするんでしょうか。そういった人たちが慕って駆けつけるくらいに唐彬は凄いんだぞ、と。

*1:才能があって度量も広いけど、品行方正というわけではない。後述するように蓄財の趣味がある。

*2:逃げる鹿に追いつける走力!

*3:師匠に経学を習い、学習後に帰宅したら自分の門下生が数百人いて教えてました、と。唐彬の師匠は列伝の最後に出てくるが東海郡の閻德という人物。

*4:主戦論、ということでしょうね。

*5:呉の討伐は時期尚早という意見を難じた言動を唐彬がしたら、討伐反対派は唐彬の意見に従ったということ。

*6:奉使が相府の計事に詣でたとき、その時の唐彬の同僚はみんな当代の立派な人物であったが、それでも唐彬を見たら恭しく思われた…要は同期の中でも別格だったと云うことでしょう。

*7:『晋書』なので司馬昭のことです。

*8:孔顥は恐らく、唐彬が品行方正でないところを評価していなかったのかも。それとも妬みの類か。

*9:司馬昭がとても唐彬を気に入った為、孔顥が唐彬について何も答えなかったのを咎められた、ということである。

*10:夷=蜀漢

*11:鄧艾は才能を自負していて、自分の意見に従う人が評価され、直言する人物は反抗的と見なされるということ。正確な表現かどうかわからないが、唐彬の鄧艾評は「自分の才能を強く信じているため、その手足になる人物(イエスマン)を評価し欲しがっている」と。

*12:長史だろうが司馬だろうが参佐だろうが牙門将だろうが、鄧艾の要求に対する答えが的を得ていなかったら、罵倒されて人前で辱められるのだろう。社内である程度の地位のある人が、他の社員の前で重役から罵倒されているようなものである。

*13:たぶん、公共工事的な何か。

*14:鄧艾は人の恨みを買って隴右の人から支持されていないから、鄧艾が誅殺されたからといって司馬昭が心配するようなことは何もないですよ、という結論。唐彬、随分とぼろくそに論じたものである。

*15:何だ?治水又は水軍担当の尚書郎か?

*16:司馬炎のこと。

*17:財欲は満たされることがあるかも知れないが、酒好きは治らないので同程度の能力なら唐彬を使おう、という判断。酒による失敗のリスクを取るより、物欲に伴うリスクを司馬炎は取った。文立はその辺の判断がし辛く、後の責任回避のために司馬炎へ判断を押しつけたのだろう。すごくサラリーマン的だ、文立(笑)

*18:この文脈から判断すると、監○○諸軍事は都督職(都督○○諸軍事)の品官的な意味での下位互換と言うよりは、監軍の役割が色濃く残った職務だと言えるかも知れない。他の事例も確認したい。

*19:呉の軍勢が戦意喪失して悉く唐彬に降伏したことを指す。

*20:已に敵も戦意無く勝利も時間の問題なので、建業一番乗り競争に加わらず其の手前で留まったらしい。

*21:国境のこと。元々は田畑のあぜ道。

*22:始め、の意味。

*23:「馘」とは戦功を報告するために切り落とす敵兵の左耳、転じて首のこと。首級。

*24:これは翊軍校尉の職務なのだろう。都督職の仕事じゃないし。

*25:及び、の意味。

*26:長く続く、の意味。

*27:即時に軍事行動へ移りたいが、その意見を中央に伺って結果報告を待つという時間の浪費はしたくない、という考えだと思われる。

*28:冀州の牛馬を徴発できたのは護烏丸校尉の権限?少なくとも監幽州諸軍事ではないだろうな。

*29:所謂「コンプライアンス違反です!ちゃんとルール守りましょう!」という事で密かに上奏したのかも知れない。

*30:一時更迭されたけど事情を説明したら許された、という事だと思う。

*31:碑を立てたいあまりに自作してしまった某左伝癖の人だって居るのに…羨ましい限りです。

*32:廊廟=廟堂。表舞台で政治を取り仕切る才能がある、という意味。

*33:期待通りに唐彬が大成した時には既に師匠は亡くなっていた、と。

*34:人材が沢山居るから雍州という名前にしました、ということだろう。

*35:思加延致って何かの熟語だろうか。よくわからん。

*36:これもどういう意味かよくわからない。どこか経典の定型文だろう。

『後漢書』漢陰老父伝

所謂「名無しの権兵衛」が列伝に載っていたので、興味深く読んでみる。たぶん、読んで得られることはない(笑)

漢陰老父者,不知何許人也。桓帝延熹中,幸竟陵,過雲夢,臨沔水,百姓莫不觀者,有老父獨耕不輟。尚書郎南陽張溫異之,使問曰:「人皆來觀,老父獨不輟,何也?」老父笑而不對。溫下道百步,自與言。老父曰:「我野人耳,不達斯語。請問天下亂而立天子邪?理而立天子邪?立天子以父天下邪?役天下以奉天子邪?昔聖王宰世,茅茨采椽,而萬人以寧。今子之君,勞人自縱,逸遊無忌。吾為子羞之,子何忍欲人觀之乎!」溫大慙。問其姓名,不告而去。

 漢陰老父は何許の人か知らざるなり。桓帝延熹中、竟陵に幸し、雲夢を過ぎ、沔水に臨み、百姓観ざる者なくも、老父独り有りて耕すを輟めず*1。尚書郎の南陽の張溫は之を異とし*2、使問うて曰く「人皆来たりて観るに、老父は独り輟めざるは何ぞや?」老父は笑い而して対せず*3。張溫は道を百歩下がり、自ら与に言す。老父曰く「我は野人のみ、斯く語に達せず。請うて天下乱れるを問い而して天子を立つるか?理め*4而して天子を立つるか?天子を立ちて以て天下の父たるか?天下に役して以て天子を奉ずるか?昔聖王宰し世、茅茨采椽*5、而して万人寧するを以てす。今の子の君、人を自ら縦に労り、逸し遊びても忌むこと無し。我は子の為に之を羞とし、子は何ぞ人之を観るを忍か!」張溫大いに慙ず。其の姓名を問うも告げず而して去る。

この次の列伝には「陳留老父」という同じく本貫不明、氏名詳細不明の老人の列伝が続く。共通点は桓帝の頃であって、この漢陰老父は延熹年間、陳留老父は党錮事件直後のエピソードだということである。この列伝そのものに信憑性があるかどうかはわからない。しかしこの列伝をわざわざ配したこと自体、内容を勘案しても、『後漢書』著者の范曄が党錮の禁を発令した宦官勢力に対して反発した表現の一部なのだろう。

*1:桓帝が巡幸してきたので皆が桓帝ご一行に注目したのに、独り桓帝を無視して農耕に励む老人がいました。

*2:皇帝が目の前を通過してもガン無視ですからね…

*3:張溫の使者「皆が皇帝陛下に注目しているのに、貴方は何で独り作業を止めないんですか?」 老人「(笑)」 …というイメージだろうか。

*4:治める、と同義。

*5:茅茨は茅と茨、采椽はクヌギの垂木。韓非子の「堯舜は采椽を刮せず、茅茨は翦せず」が出典。

『後漢書』曹騰伝

曹騰字季興,沛國譙人也。安帝時,除黃門從官。順帝在東宮,鄧太后以騰年少謹厚,使侍皇太子書,特見親愛。及帝即位,騰為小黃門,遷中常侍。桓帝得立,騰與長樂太僕州輔等七人,以定策功,皆封亭侯,騰為費亭侯,遷大長秋,加位特進。

騰用事省闥三十餘年,奉事四帝,未嘗有過。其所進達,皆海内名人,陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等。時蜀郡太守因計吏賂遺於騰,益州刺史种暠於斜谷關搜得其書,上奏太守,并以劾騰,請下廷尉案罪。帝曰:「書自外來,非騰之過。」遂寢暠奏。騰不為纖介,常稱暠為能吏,時人嗟美之。

騰卒,養子嵩嗣。种暠後為司徒,告賓客曰:「今身為公,乃曹常侍力焉。」

嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬,故位至太尉。及子操起兵,不肯相隨,乃與少子疾避亂琅邪,為徐州刺史陶謙所殺。

 曹騰字は季興、沛国譙の人なり。安帝時、黄門従官に除せられる。順帝東宮に在りて、鄧太后曹騰の年少にして謹厚なるを以て、皇太子の書に侍らし、特に親愛せらる。帝即位するに及び、曹騰小黄門と為り、中常侍に遷る。桓帝立つを得るや、曹騰と長楽太僕の州輔等七人、策を定む功を以て皆亭侯に封ぜら、曹騰は費亭侯と為り、大長秋に遷り、特進の位を加えらる。
 曹騰は省闥に用事すること三十余年、四帝に奉じ事え、未だ嘗て過有らず。其の進め達する所、皆海内の名人たり。陳留の虞放、邊韶、南陽の延固、張溫、弘農の張奐、潁川の堂谿典等。時に蜀郡太守計吏が曹騰に賂遺せしむるに因り、益州刺史の种暠は斜谷関に於いてその書を捜し得、太守に上奏し、并せて以て曹騰を劾し、廷尉に下して罪を案ずるを請う。帝曰く「書は外より来たれば、曹騰の過に非ず。」遂に种暠の奏を寝かす。曹騰は繊介為さず、常に种暠能吏を為すと称し、特に人は之を嗟美す*1
 曹騰卒し、養子の曹嵩嗣ぐ。种暠後に司徒と為りて賓客に告げて曰く「今身公と為るは、乃ち曹常侍の力なり。」
 曹嵩霊帝持に中官及び西園に銭一億万を貨賂し、故に位は太尉に至る。子の曹操起兵するに及び、相随うを肯じず、乃ち少子の曹疾*2と琅邪に乱を避け、徐州刺史陶謙に殺さるる所と為る。

と言うわけで、曹操の祖父こと曹騰。ま、有名すぎるので論評は避けます。王鳴盛『十七史商&#x69B7』や劉知幾『史通』等が、宦者列伝そのものや范曄が執筆の際に参考にしたであろう『東觀漢記』を批判しているのは面白いですね。劉知幾『史通』は先日注文していて、恐らく3月中旬頃までには自宅に到着すると思うので、当時の史料批判の姿勢を参考にしたいと思います。

*1:『後漢書集解』では王鳴盛の意見として「曹騰は国を誤らせた悪人なのに良く書かれているのは『東觀記』の元文か、魏代の人物による潤色の影響ではなかろうか」とも述べている。そして『東觀記』に関しては孫程伝の集解で「当時の孫程や鄭衆などの有力宦官は東観にいた為、筆を曲げている」とする劉知幾の見解を掲載している。つまり、この宦者列伝そのものが『東觀記』のバイアスを受けて成立していて片手落ちだと述べている。私は『東觀記』の実情を調べていないので、この意見の是非は論評しないでおく。

*2:『官本考証』曰く、『魏志』では曹嵩の少子は曹徳との表記。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (3)

文學曰:「孔子曰:『有國有家者,不患貧而患不均,不患寡而患不安。』故天子不言多少,諸侯不言利害,大夫不言得喪。畜仁義以風之,廣德行以懷之。是以近者親附而遠者悦服。故善克者不戰,善戰者不師,善師者不陣。修之於廟堂,而折沖還師。王者行仁政,無敵於天下,惡用費哉?」

大夫曰:「匈奴桀黠,擅恣入塞,犯厲中國,殺伐郡、縣、朔方都尉,甚悖逆不軌,宜誅討之日久矣。陛下垂大惠,哀元元之未贍,不忍暴士大夫於原野;縱難被堅執銳,有北面復匈奴之志,又欲罷鹽、鐵、均輸,擾邊用,損武略,無憂邊之心,於其義未便也。」

文学の士が冒頭で孔子の言として引用しているのは、『論語』の以下の文章。

丘也聞,有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。
(『論語』季氏第十六)

金谷治訳注『論語』によると、この部分は以下のように翻訳される。

自分の聞くところでは『国を治め家を治める者は、〔人民の〕少ないことを心配しないで〔取り扱いの〕公平でないことを心配し、貧しいことを心配しないで〔人心の〕安定しないことを心配する。』
(金谷(訳注)『論語』(岩波文庫) p.328)

その後には経済や利害に固執することを否定し、仁政を敷いて遠近共に信服させるべきを説く。そうすれば「天下に於いて敵無く、悪くにか費えを用いん哉?」とし、その前段で桑弘羊が主張したような財政政策は必要ないと主張する。

一方、桑弘羊は匈奴のことを油断ならぬ敵対勢力だと手厳しく批判し、匈奴の侵入によって被害が後を絶たない実情を説く。よってもし現在の財政政策を罷めるようなことがあれば、北方の防備は疎かとなって支障を来すと主張するのである。

片や儒教の理想としてきた不戦・徳治主義、片や増税・軍備増強路線。理想と現実の中で如何に政治を運営すべきかの議論は、形を変えて今でも行われている。子細は異なれど、議論の対立の構図は今も昔も変わらないようだ。