班固『白虎通』巻一 號 (2)

久しぶりの投稿になります。間が空きすぎて漢文のルールを忘れかけていますが、取り敢えず今回は『白虎通』第一巻の号の解説箇所の第二段落を見ていきたいと思います。

或稱天子,或稱帝王何?以為接上稱天子者,明以爵事天也。接下稱帝王者,明位號天下至尊之稱,以號令臣下也。故《尚書》曰:帝曰「諮四岳」。王曰「格汝眾」。或有一人。王者自謂一人者,謙也。欲言己材能當一人耳。故《論語》曰:「百姓有過,在予一人。」臣下謂之一人何?亦所以尊王者也。以天下之大、四海之內,所共尊者一人耳。故《尚書》曰:「不施予一人。」或稱朕何?亦王者之謙也。朕,我也。或稱予者,予亦我也。不以尊稱自也,但自我皆謙。

これを書き下すと、ちょっと久方ぶりなので不慣れですが、以下の通りになります。

或いは天子を称し、或いは帝王を称するのは何ぞや?おもえらく上に接し天子を称するは、爵を以て天に事うるを明らかにするなり。下に接し帝王を称するは、天下至尊の称を号し、以て臣下に号令する位を明らかにするなり。故に『尚書』曰く、帝曰く「四岳に諮れ」。王曰く「汝の衆を格せ」。或いは一人を称す。王者自ら一人を称するは、謙なり。己材よく一人当たらんと言うを欲するのみ。故に『論語』に曰く、「百姓に過有るは、予一人に在り」。臣下、之の一人を言うは何ぞや?亦た王者を尊する所以なり。天下の大、四海の内を以て、共に尊する者は一人をするところのみ。故に『尚書』曰く「予一人に施さざる」。或いは朕を称するは何ぞや?亦た王者の謙なり。朕、我なり。或いは予と称するは、予亦た我なり。尊を以て自らを称さざるなり。但、自我皆謙とす。

最初の問いは天子と帝王の違いについて。『白虎通』では天子を称するのは天に仕えていることを示すためであり、帝王を称するのは臣民のトップであることを明示して天下に号令をかけるためであると解説しています。

帝が諮るべき四岳が何かということですが、この四岳は山岳のことではありません。『尚書』堯典篇の注疏を見れば分かりますが、四方を司る諸侯のことで帝王を補佐するために儲けられました。また「汝の衆を格せ」は原文だと「汝の衆を裕せよ」となりますが、『白虎通疏証』著者の陳立は、『尚書』盤庚篇にて「格汝眾」の表現があり、格と裕は韻も声も同じなので誤ったのではないかという推測をしています。尚、『尚書』盤庚篇に於ける「格」の意味ですが、『爾雅』釈言篇の解説に拠れば「来たる」という意味になるようです(参照:孫星衍『尚書今古文注疏』)。「汝の衆、来たる」だけでは意味が分からないのですが、この『尚書』盤庚篇全体が盤庚による民衆の教化に関する話になっていますので、総合的には民衆を教化するニュアンスで捉えておけば良いのかな、と。

皇帝の使う自称である一人、朕、予は謙遜表現です。特に天子が「予一人」と称する時は「私は人であって余人と異なるところがない」を意味すると『尚書正義』に記されています。本来、天子は天の代理者という名目がありますから、その代理者が「人」を称すること自体、謙遜した表現になると言うことです。また「朕」が皇帝専用の自称になったのは秦漢の時代以後で、それ以前は貴賎の区別無く「朕」を自称に用いました。具体例では帝堯や帝舜といった五帝、春秋戦国時代の屈原などが「朕」を自称として用いています。

『白虎通』を読むことは『尚書』を読むことに通じますので、何とも神経を使います。特に『尚書』なんて注釈だらけなので、いま上述したことが正しいのかどうかすら、怪しい。間違っている点はどうぞ、遠慮無くご指摘ください。

班固『白虎通』巻一 號 (1)

帝王者何?號也。號者,功之表也。所以表功明德,號令臣下者也。德合天地者稱帝,仁義合者稱王,別優劣也。《禮記謚法》曰:「德象天地稱帝,仁義所生稱王。」帝者天號,王者五行之稱也。皇者何謂也?亦號也。皇,君也,美也,大也。天人之總,美大稱也。時質,故總稱之也。號言為帝何?帝者,諦也。象可承也。王者,往也。天下所歸往。《鉤命決》曰:「三皇步,五帝趨,三王馳,五伯騖。」號之為皇者,煌煌人莫違也。煩一夫,擾一士,以勞天下,不為皇也。不擾匹夫匹婦,故為皇。故黃金棄于山,珠玉捐于淵,巖居穴處,衣皮毛,飲泉液,吮露英,虛無寥廓,與天地通靈也。

帝王とは何でしょうね?というお話。「号」とは何なのかについて、この段落では解説している。全部で五段落、其の中の最初の部分を取り敢えず書き下してみる。尚、例によって本文は陳立『白虎通疏証』(中華書局)に拠った。細かいことを言うと色々大変だけど。とりあえず、さっくり書き下してみる。厳密な書き下しは誰か別な人やってください。

帝王は何ぞや?号なり。号は、功の表れなり。功を表し徳を明らかにし、臣下に号令する者の所以なり。徳が天地に合する者は帝を称し、仁義合する者は王を称し、優劣を別つなり。『礼記』謚法編に曰く、「徳は天地を象りて帝を称し、仁義の生ずるところ王を称す。」帝は天号、王は五行の称なり。皇は何の謂いか?また号なり。皇、君なり、美なり、大なり。天人の総、美大の称なり。時質す、故に之を総称するなり。号が帝を為すと言うは何ぞや?帝は、諦なり。象を承くべきなり。王は、往なり。天下の帰往するところ。『鉤命決』に曰く、「三帝歩き、五帝趨り、三王馳せ、五伯騖す。」号の皇を為すは、煌々と人違うなきなり。一夫を煩らい、一士を擾らい、以て天下を労するは、皇と為さざるなり。匹夫匹婦を擾わず、故に皇と為る。故に黄金を山に棄て、珠玉を淵に捐て、穴処に厳居し、皮毛を衣、泉液を飲み、露英を吮い、虚無寥廓、天地と霊を通ずるなり。

というわけで、結局分かったような分かんないような感じなんですが、そもそも「号」とは功績を称えたり、その人の徳を明らかにする為の代物であるということ。そしてその人の徳が天地と適合していれば「帝」であるし、仁義を持ち合わせていれば「王」であると。徳が天地に合する、とは何とも判然としないですが、自然のあるべき姿に合致しているというか、儒教の徳目をそのまま体現しているとか、そういう感じの意味なんだと思います。だから帝は諦、つまり天のあるがままを体現するんだ・・・見たいな話になっていくのでしょう。

次ぎに「皇」ですが、これも号だと『白虎通』では記しています。「君」「美」「大」とか色々言ってますが、その続きを読む限り人格者のことでしょう。自らが治める対象である庶民や士について「めんどくせぇ」とか思いながら苦労して天下を収めているようでは、「皇」たる資格がないと。そういう些末なこと、面倒なことを面倒と思わないようであってこそ、「皇」なのだと。多分、私なんか一生、「皇」の有資格者になれそうもありません。

で、最後は色々言ってますが、質素倹約ですね。黄金は山に棄て、宝石は河に放り投げ、粗末な住居と衣服、飲食も贅沢しないし、家具も余計なものを置かない。これが天地と霊を通じる方法なのだと説くわけです。

そんなわけで、これに適合する人はあまり見たことないんですが、後漢末から三国時代の武将が死後「家には何も財産がなかった」みたいな記述になっているのは、この辺の考え方があるんだろうなぁ、とか思ったりします。

今回はいつもと違って、自分なりの解釈をかなり入れてしまいましたけど・・・次回はまた気が向いたら。読者諸兄の御指摘御指南、宜しくお願いします。

 

班固『白虎通』巻六 耕桑

思い出したかのように再開してみる。

王者所以親耕,后親桑何?以率天下農蠶也。天子親耕以供郊廟之祭,后親桑以供祭服。《祭義》曰:「天子三推,三公五推,卿大夫七推。」耕於東郊何?東方少陽,農事始起。桑於西郊?西方少陰,女功所成。故《曾子問》曰:「天子耕東田而三反之。」《周官》曰:「后親桑,率外内婦蠶於北郊。」《禮祭義》曰:「古者天子諸侯,必有公桑蠶室,近外水為之,築周棘牆,而外閉之者也。」

久しぶりなので合っているかわからないが、これを書き下すと次のようになる。

王者が耕に親しみ、后が桑に親しむ所以は何ぞや?天下の農蚕を率いるを以てする也。天子は耕に親しみ以て郊廟の祭に供え、后は桑に親しみ以て祭服に供うる。『祭義』に曰く「天子三推、三公五推、卿大夫七推。」東郊に耕するのは何ぞや?東方は少陽、農事は始め起こる。西郊に桑するのは何ぞや?西方は少陰、女の功が成ずる所たり。故に『曾子問』に曰く「天子は東田を耕し、而して之を三反とす。」『周官』に曰く「后は桑に親しみ、外内の婦を率いて北郊に蚕す。」『礼書』祭義編に曰く「古は天子諸侯、必ずや公の桑蚕室有り、外水の近は之が為なり。周りに棘牆を築き、而して外閉の者也。」

天子の祭礼として、天子が田を耕し、后が桑蚕して服を作成して天に供えるというものがある。どうしてそのような祭礼があるのかというと、国家の根幹たる農業を天子が司り、無事に農業に励むことができるように…との意味合いが込められているのであろう。よって、昔の宮殿には蚕を飼うための部屋が設けられていたし、近くに川があるところを選ぶのは祭礼で田を耕すためなのである。

そうすると、必然的に宮殿の敷地内がどのような仕組みか大変興味深いが、これは『三輔黄図』を参照するのが一番適しているのかも知れない。それについては追って調べたいと思う。

まぁ、取り敢えず今日はこの辺で。

班固『白虎通』巻一 爵 (7)

爵人于朝者,示不私人以官,與衆共之義也。封諸侯于廟者,示不自專也。明法度皆祖之制也,舉事必告焉。《王制》曰:「爵人于朝,與衆共之焉。」《詩》云:「王命卿士,南仲太祖。」《禮祭統》曰:「古者明君,爵有德必于太祖。君降立于阼階南,南面向,所命北面,央由君右執策命之。」

「朝で人に爵位を授けるのは、私人を役人として任用していないことを示す」「廟で諸侯を封じるのは、恣意的な運用でないことを示す」という。朝は天子が政務を執る場所、私人は召使いとか家臣の意味。また、本文中に出てくる「阼階(そかい)」がよくわからないので調べたところ、「主人が登る東側の階段(角川新字源 改訂版)」の意味らしく、古来は主人が東側、客が西側の階段を使用したとのこと。

また、『毛詩』大雅・常武の「王命卿士,南仲大祖。」の意味について、ふくらさんが運営する中国兵法では以下のように説明している。

はじめに、周王は王室の軍隊を任命して統帥する権限をがっちり掌握していました。『詩経』「大雅・常武」に「王命郷士、南仲太祖、大師皇父、整我六師、以修我戎」とあります。これは周王が太祖の霊廟において「西六師」の将軍を任命する儀式を行ったことを言っています。軍隊のなかの各種の武官も、おおむね周王によって任命されました。
(中国の兵制―1.夏・殷・周の兵制「第三節 西周の兵制」)

また、陳立は注釈の中で廬文弨『今本四十四篇闕文』を引用する。

廬云:「衆當據本書作士,太祖本作太廟。自專,自一作敢。」

以上のことを考慮すると、ふくらさんの解釈するとおり、この引用部分は将軍の任命が太祖の霊廟に於いて行われたことを指し示すものなのだろう。人に爵位を授けたり、諸侯を封じたり、将軍を任命するという行為は、儀式化することでその重要さ、神聖さを印象づけていたのであろう。人事権の行使は今も昔も大変なのである。

班固『白虎通』巻一 爵 (5)

婦人無爵何?陰卑無外事,是以有三從之義:未嫁從父,既嫁從夫,夫死從子。故夫尊于朝,妻榮于室,隨夫之行,故《禮郊特牲》曰:「婦人無爵,坐以夫之齒。」《禮》曰:「生無爵,死無謚。」《春秋》録夫人皆有謚,夫人何以知非爵也?《論語》曰:「邦君之妻,君稱之曰夫人,國人稱之曰君夫人。」即令是爵,君稱之與國人稱之不當異也。

婦人に爵がない、ということについて論述している段落。『列女傳』にはかの有名な「未だ嫁がずは父に従い、既に嫁げば夫に従い、夫が死せば子に従え」の文句があり、『禮記』には「婦人に爵無く、坐して夫の歯を以てす」「生きて爵無く、死して謚無し」とある。とにかく女性、特に嫁いだ夫人は夫の陰となるべきことが説かれている。

しかし、一方で『春秋』には婦人に爵がある記録が残っている。これを受けて『白虎通疏証』の著者である陳立は注釈で

此據夫人有謚,以難婦人無爵也。(此れ夫人謚を有するに據りて、以て婦人の爵無きを難ずる也。)

と述べている。正直、これだけでは何と解釈して良いのか完全には掴みきれないが、婦人には爵がないんだという考え方は必ずしも当てはまりませんよ、ということなのかも知れない。*1 *2

*1:その後、Twitter上でgoushu氏から「陳立の注は文末につけられているのでわかりにくいけど、「《春秋》録夫人皆有謚,夫人何以知非爵也?」に対する注釈っぽい。『白虎通』は「春秋によると夫人に謚があるんだから、(爵があってもおかしくない、というか)『「夫人』っていうのが爵の名前じゃね?」という論難を仮設して、仮設した論難を論破することによって婦人には爵が無いという説を補強するというレトリックを使っている。ちなみに『夫人』が爵じゃない根拠はその後の論語の引用。論語に邦君の妻は「夫人」と呼ばれたり「君夫人」と呼ばれたり呼称が変わる。」というご指摘をいただいた。多謝!ご指摘の相当箇所はこちら→

*2:更に追記。先のご指摘を踏まえれば、婦人に爵は無いのですよ、ということになる。

班固『白虎通』巻一 爵 (4)

王者太子亦稱士何?舉從下升,以為人無生得貴者,莫不由士起。是以舜時稱為天子,必先試于士。《禮士冠經》曰:「天子之元子,士也。」

今回の段落は非常に短い文章となっている。主題は「王や太子を士と称するのは何ででしょうね?」という疑問である。この文章の注釈で陳立が述べているが、天子や諸侯が後を継いで国のトップに立っていたとしても、爵位を賜わなければ「士」の階級と同列とされたようである。この根拠として陳立は『禮記』王制編や『春秋公羊傳』僖公五年の注釈などを引用している。

ところで天子は爵位であり、爵位を賜わなければその地位にあっても士と同列と見なされるのであれば、果たして天子の爵位を与えるのは誰なんでしょうね?天の意思が天子の爵位を賜る式を何らかの形で執り行っていたんでしょうか。嗚呼、これだから私は儀礼に疎くていけません…

班固『白虎通』巻一 爵 (1)

気力が続くうちに新しい記事を。
モチベーションが無くなると一気に更新ペース落ちますからね。
(2ヶ月に1回更新ペースとか…)

以前やっていたブログでも取り上げた『白虎通』ですが、この書物は漢代の制度や考え方について興味深い記述をしています。

そもそも『白虎通』はどうして編纂されたのか復習いたしますと、後漢初期、儒学には大きく分けて古文学派と今文学派に分かれておりました。その為、章帝の頃に制度・文化的な問題を議論するために学者・官僚が白虎観に集いました。この結果は『漢書』の著者でもある班固によって纏められ、『白虎通』となりました。『白虎議奏』『白虎通徳論』『白虎通義』とも称しますが、いずれも同じ書物です。

今回は清代の陳立によって校釈された『白虎通疏証』をベースに本文を紹介していきます。

天子者,爵稱也。爵所以稱天子者何?王者父天母地,為天之子也。故《援神契》曰:「天覆地載謂之天子,上法斗極。」《鉤命決》曰:「天子,爵稱也。」帝王之紱有優劣,所以俱稱天子者何?以其俱命於天,而王治五千里內也。《尚書》曰:「天子作民父母,以為天下王。」何以知帝亦稱天子也,以法天下也?《中候》曰:「天子臣放勳。」《書亡逸篇》曰:「厥兆天子爵。」何以言皇亦稱天子也?以其言天覆地載,俱王天下也。故《易》曰:「伏羲氏之王天下也。」

ここは「天子」という呼称が爵号である、と言及している段落です。この本文に対する注釈は色々ありますが、簡略して云えば、天下を治め民の頂点に立つ聖人に与えられる称号、と解釈すべきでしょうか。尚、この段落の出典は今文学の書籍が中心となっています。

班固『白虎通』巻一 爵 (6)

庶人稱匹夫者,匹,偶也。與其妻為偶,陰陽相成之義也。一夫一婦成一室。明君人者,不當使男女有過時無匹偶也。《論語》曰:「匹夫匹婦。」

庶人のことを「匹夫」と称することの由来。匹夫の匹は「偶」、つまり陰陽(この場合は夫と妻)が対となることを意味するという。この段落の文章を読むに、庶人は妾を擁するような階層(士大夫層?)とは別階層であることが示唆される。だからであろうか、よく歴史小説やマンガで「匹夫!」と罵倒するのを見掛けるが、これは「この下層階級の人間め!」(おまえは士大夫の階層に相応しい人間じゃない、みたいな解釈)ということを意味するからこそ、将軍である士大夫層に対する罵倒として機能するのかも知れない。三國志で張飛が劉巴から「兵子」と罵られたような感じで。

また、為政者は「当に男女時を過ぎて偶匹無きを有らしむべからず也」といい、庶人が婚期を迎えても相方が居ないような事態を作らぬよう戒めている。陳立の注釈を参照すると、この部分は

使男女無夫家者會之。(男女、夫無き家は之を会せしむ。)
(『周禮』媒氏篇)

に対応しているという。人口の多さが国力の源泉である以上、人口を殖やす政策は為政者として重要な命題だったのであろう。

班固『白虎通』巻一 爵 (8)

大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。《春秋穀梁傳》曰:「追錫死者,非禮也。」《王制》曰:「葬從死者,祭從生者」,所以追孝繼養也。葬從死者何?子無爵父之義也。《禮中庸》記曰:「父為大夫,子為士,葬以大夫祭以士;子為大夫,父為士,祭以大夫葬以士也。」

追爵に関する記事。冒頭は「大夫功成りて未だ封ぜざるに而して死し、爵賜を追って得ざるの者、以て其れ股肱に当たらざる也。」とでも書き下せば良いだろうか。その次に引用されている『春秋穀梁傳』の記事は莊公元年の記事で、

【経】王使榮叔來錫桓公命。
【伝】禮有受命,無來錫命。錫命非正也。生服之,死行之,禮也。生不服,死追錫之,不正甚矣。
(『春秋穀梁傳』莊公元年)

が元々の本文。天子から爵を賜るのは生前に天子に服事した結果であって、生前に服事していない者が爵を賜るのは礼に反しているではないか、と『春秋穀梁傳』では難じているのである。ただし、これは今文学の立場としての批判であって、古文学を代表する『春秋左氏傳』では

【経】王使榮叔來錫桓公命。
(『春秋左氏傳』莊公元年)

と記すのみで、許愼『五経異義』が以下で指摘するように、死後に追錫すること自体を非難していない。*1

春秋公羊、穀梁説,王使榮叔錫魯桓公命,追錫死者,非禮也。死者功可追而錫,如有罪,又可追而刑耶?春秋左氏説譏其錫簒弑之君,無譏錫死者之文也。
(『通典』引『五経異義』)

この事実から陳立は、『白虎通』に記載の説は『春秋穀梁傳』に基づくものだろうとしている*2

さて、『禮記』王制篇の「葬は死者に従い、祭は生者に従え。」の実例は『中庸』に記されている。つまり、父と息子の階層が異なった場合、葬儀は父の階層、祭は息子の階層で実施すると言うことである*3

註3について、goushu氏から以下のご指摘があった。どうやら、私は陳立の注釈を逆に読み違えていたようです。ご指摘、感謝いたします。

注3の部分だけど、前の部分で「天子・諸侯の若(ごと)きは但だ祖父を追爵するを得ざるのみ。喪葬の事に至りては、亦た宜しく権に従うべし」とあって天子諸侯クラスは士大夫と違って葬式に関しては礼の規定から外れるんだと言っていて、そこで引用部分は漢の高祖と太上皇も例を引き合いに出しつつ、太上皇を天子の服ではなく士の服で葬儀を行うのは、子の高祖や臣下の情として受け入れがたいので、礼を曲げて天子の服で葬式を行う。その後の通常の祖先祭祀の場合は礼の規定どおり士の服で行う。と言っているんじゃないかと思います。

*1:他にも死後に追錫された例は、『春秋左氏傳』昭公七年の伝に記載の衛襄公がある。

*2:それが「追錫死者,非禮也。」のみなのか、「大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。」まで掛かってくる注釈なのかは判然としない。

*3:陳立は葬礼に関する様々な議論を引用しながら、「若然,則禮父為士,子為天子,祭以天子,其尸服以士服者,葬時之不可直士庶之制者,禮屈于情,一時之權。至祭時,乃人子之常事,而尸則死者之所憑,又不可服以天子之服,則仍依父生時之制也。」と述べ、たとえ天子であっても父が士庶の階層であったならば、葬は士庶の服で執り行うべきとしている。

班固『白虎通』巻一 爵 (9)

父在稱世子何?繋于君也。父殁稱子某者何?屈于尸柩也。既葬稱小子者,即尊之漸也。踰年稱公者,緣民之心不可一日無君也。緣終始之義,一年不可有二君也。故踰年即位,所以繋民臣之心也。三年然後受爵者,緣孝子之心,未忍安吉也。故《春秋》:「魯僖公三十三年十二月乙巳,薨于小寢。文公元年,春,王正月,公即位。四月丁巳,葬我君僖公。」《韓詩内傳》曰:「諸侯世子三年喪畢,上受爵命于天子。」所以名之為世子何?言欲其世世不絶也。何以知天子之子亦稱世子也?《春秋》曰:「公會王世子于首止。」或曰:天子之子稱太子。《尚書傳》曰:「太子發升王舟。」《中候》曰:「廢考,立發為太子。」明文王時稱太子也。世子三年喪畢,上受爵命于天子何?明爵者天子之所有,臣無自爵之義。童子當受父爵命,使大夫就其國命之,明王者不與童子為禮也。以《春秋》魯成公幼少,與諸侯會,不見公,《經》不以為魯恥,明不與童子為禮也。世子上受爵命,衣士服何?謙不敢自專也。故《詩》曰:「韎韐有赩。」謂世子始行也。

天子諸侯が爵位を襲う場合の儀礼について。ここで「世子」という単語が頻出するが、これは「太子」と同義。古代においては「世」と「太」は互いに通用する関係だったという。それと踰年即位、つまり先代の天子が崩じて次の天子が即位する際、年を改めてから次代が即位する理由を述べている。曰く、一年に二人の君主が存在してはいけないという原則があるためという。そしてその実例を『春秋』の記事に求めている。

また、諸侯は先代が亡くなってから三年の喪が終ってから先代の爵位を継いぐのであって、それまでは子を称するのが通例とする。その理由として、爵位はあくまで天子が諸侯に与えるものであって、決して諸侯自らの所有物ではないからだとする。魯成公四年の『春秋』の記事では鄭伯が亡くなってから間もなく「鄭伯」と記して許の国を討伐していることを記しているが(下記引用部の赤字部分)、これは三年の喪に服さなかったことを非難している意味合いがある、と『春秋公羊傳解詁』の著者である何休は指摘する。

【経】
四年,春,宋公使華元來聘。
三月壬申,鄭伯堅卒。
杞伯來朝。
夏,四月甲寅,臧孫許卒。
公如晉。
葬鄭襄公。
秋,公至自晉。
冬,城鄆。
鄭伯伐許。
(『春秋公羊傳』成公四年)

ただし、この三年の喪に服し終わってから爵位を天子から受けるという行為、この解釈は『春秋公羊傳』文公九年の傳に拠るものだと陳立は注釈で指摘する(下記引用部の赤字部分)。

【経】
九年春,毛伯來求金。

【傳】
毛伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?當喪未君也。逾年矣,何以謂之未君?即位矣,而未稱王也。未稱王,何以知其即位?以諸侯之逾年即位,亦知天子之逾年即位也。以天子三年然後稱王,亦知諸侯於其封內三年稱子也。逾年稱公矣,則曷為於其封內三年稱子?緣民臣之心,不可一日無君;緣終始之義,一年不二君,不可曠年無君;緣孝子之心,則三年不忍當也。毛伯來求金,何以書?譏。何譏爾?王者無求,求金非禮也。然則是王者與?曰:非也。非王者則曷為謂之王者?王者無求,曰:是子也。繼文王之體,守文王之法度,文王之法無求而求,故譏之也。
(『春秋公羊傳』文公九年)

これが『春秋左氏傳』の傳は以下のようになり、三年の喪云々ではなく、まだ先代の周王の葬儀が終わっていないことを理由に求めている。必ずしも三年の喪云々というわけではないが、『白虎通』本文では特に言及されていない。

【経】
九年,春,毛伯來求金。

【傳】
毛伯衛來求金,非禮也,不書王命,未葬也。
(『春秋左氏傳』文公九年)

この様に、ここに限らず春秋三伝は互いに解釈が微妙に異なることが少なくない。しかし、この『白虎通』において『春秋左氏傳』の説がさほど有力ではないのは、両漢代において『春秋左氏傳』が隆盛を迎えていなかったからである。『春秋左氏傳』の解釈が経学上有力となるためには、後漢末から魏晋期を待たねばならなかったようである。