向殿政男『よくわかるリスクアセスメント-事故未然防止の技術-』(中災防新書)

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リスクアセスメントに興味があったことから上記の本を読了した。初めて触れる内容では無いから中身の一部は知っていたが、卑見の限り、内容は簡潔で抑えるべき処を抑えており、入門として非常に有用だと思う。

本書の内容は文字通り、リスクアセスメントである。安全設計思想、危険源の同定、リスク分析、リスク低減策の実施。これらを一言で言ってしまえば、安全性に関する事前評価ということになる。完全無欠な安全、というものがこの世に存在せず、且つ期待することも出来ない以上、どの程度まで事故のリスクを低減すべきなのか、その手法について論じている。

具体的な内容は買って読んでいただくことが正解だと思うので差し控えるけども、企業にとってどこまでリスクを評価し、低減するべきかという判断は難しい。業種によって大丈夫とするリスクレベルは異なるだろうし、またリスク回避策としての多重化や冗長化は一般的に手間暇やコスト増加に繋がる。安全は目に見えないから、コスト削減を掲げるときにはこういった多重化や冗長化は軽視されてやすい。その為にも、何によって安全を確保しているのか、その評価基準を設定して認識を共通化させておくのは、対外的にも、内部的にも重要であるように思われる。

リスク評価の話自体は決して難しい話ではないが、それを社内でどのように位置づけて、、、となると急に一筋縄でいかない調整を要する問題となる。この本は基礎である。これを今の環境に対してどのようにしてシステマチックに運用していくかが、担当者として必要な実務能力となるのだろう。

福原啓郎『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晋期における政治史及び社会史に関する論考。恐らく同氏の著書『西晋の武帝 司馬炎』(白帝社)で名前を知っている人も多いと思うが、基本的な方向性は同じである。但し本書は学術書である為、先行研究に対する言及や注釈が豊富である(それだけではないけども)。目次等に関しては三国志ニュースさんで言及されているので全体的な紹介や論評はお任せすることにして、特に興味を持った箇所だけ言及する。

まず本書の概略に関しては、序論と結語の部分を読み通せば分かるように構成されている。また、図解は基本的に少ないものの、石刻資料(第四章)や墓誌(第十一章)には比較的多く図面が載っている。第九章の『銭神論』や第十章の『釈時論』に関しても主要な逸文に関する原文と全訳を載せているので、後で参照するのに役立つ。

そして個人的にもっとも興味を持ったのが、第五章「八王の乱の本質」及び第六章「西晋代宗室諸王の特質」である。この箇所は西晋時代の八王の乱に関して、従来研究では宗室の諸王が自らの欲するままにクーデターを繰り返したと見られがちであるが、それに対して貴族制の観点から一定の方向性を見出そうとするものである。そして著者がそのキーワードとして摘出したのが「輿論」の存在である。著者は言及する(赤字は拙による)。

この府主と幕僚の関係を考察してみると、そもそも府主に辟召されて幕僚となっていた士大夫は、府主が自らに人心を繋ぎ留めるために辟召した人物、すなわち輿論の期待を担っている人物であり、逆に言うならば、輿論を導く立場にある人物であり、それ故に幕僚の府主に対する批判は、輿論の具体的な代弁である。
(p.174:第五章第二節 輿論について)

このように宗室諸王は開府することにより、軍府の属僚および管内の郡県の長官の任免権を掌握していたのである。ではすべて宗室諸王の恣意によるかといえばそうではなく何かに規制されている。その規制するものが士大夫の輿論であり、逆に言うならば輿論で支持された人物こそその軍府内の僚属となるのである。・・・(中略)・・・こうして府主である宗室諸王は辟召した士大夫(すなわち貴族)を通して具体的に輿論と結びつくのである。
(p.214:第六章第二節 宗室諸王と士大夫)

突きつめれば、宗室諸王と輿論の存在とその結合が詔敕の代替となったといえよう。そしてこうしたありかたこそ逆に詔敕などに現われた皇帝の権威を生ぜしむる由来を示唆するのではないか。・・・(中略)・・・つまり魏晋国家体制は図式的には軍隊と輿論の結合であり、その両者を結ぶ接点として皇帝が存在するのであり、皇帝の権威はその背景に両者により支えられており、そこから生じているのである。
(p.222:第六章第三節 宗室諸王の権威)

 

上述するように、皇帝の権威が軍権及び輿望を担う士大夫層の支持から構成されていると著者は結論づける。八王の乱の前半で矯詔によるクーデターが、後半で詔勅に因らない義起が可能であったのも軍権と士大夫層による支持があったからであり、これがなければ皇帝と雖も自由に権力が振る舞えなかったということである。

ただ個人的な贅沢を言えば、この輿論を構成する士大夫層が如何なるものであるかについてもう一歩踏み込んだ言及が欲しいように思えた。それは果たして川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』(岩波書店)で言及するような「郷論環節の重層構造」に由来するものなのか、それとも渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)で言及するような文化価値によるものなのか、それともそれらとは別の見方によるものなのか。系譜的に川勝義雄氏の説をベースにしていると勝手に想像しているが、ひょっとすると私が見落としているだけかも知れない。

三国時代というよりは魏末~西晋に掛けての言及が殆どであるから、三国時代末期に興味のある人は購入を検討しても良いのではないだろうか。

近藤大介『「中国模式」の衝撃』(平凡社新書)

本書は中国の生活様式、文化について述べた本である。特に日本との差異が強調された構成になっている。北京を中心とした筆者の生活体験から始まり、著者が経験した対中国人との交渉。後半は人民元を基軸通貨に据えたい中国の思惑と、米国に挑む中国の姿を描く。

最初は北京で何でも壊れる、タクシー等サービスの悪さ等々を挙げているが、一方で上海における経験、乃ち以前の上海タクシーはサービスが劣悪だったが近年は顕著に向上していることから、これは中国が発展の過渡期にあるが故の状態であり、今後は色々と整備、教育研修されて改善するだろうと結んでいる。

他、中国経済についてのリスクは他書でも述べているとおりであり、特別何か目新しいと言うことはない。そして結論としても、今後は欧米消費に頼った高度成長は続かず、前例のない社会主義市場経済として試行錯誤が続き、アメリカに変わる経済大国へ成長できるかは道半ばとしている。

いずれにせよ、今後しばらくは中国とアメリカが軸となることは確実である。日本はアメリカに付くのか、中国に付くのかという選択肢の間で揺れ動いているように見える。この現実の中、日本は如何なる選択肢を採り得るのか。著者は後書きでこう述べる。

 総じて言えば、日本はGDPの日中逆転など気にせず、「量から質への転換」を図ればよいのである。先端技術、サービス力、クール文化という「三種の神器」を駆使した「日本様式」で邁進し、中国の巨大市場を活用していけばよいのである。

これを官民挙げて取り組むことが、日本が生き残る道だとする。さて、日本は日米の狭間で埋没せずに何処まで生き残っていくことができるだろうか。

劉知幾[著]、浦起龍[通釈]『史通通釈』(上海古籍出版社)

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購入を志した直接の動機は宮崎市定『中国文明論集』(岩波文庫)の中で言及されていて強く興味を持ったことであるが、それ以前から劉知幾『史通』の名前は存じていて気になる書物ではあった。

『史通』は他の正史や『資治通鑑』『春秋』のような書物とは異なり、歴史書の成立や記述内容の真偽を論じる、謂わば史学の研究書みたいなものである。よって記述は「此処には~の記述があるがそれは違う」とかそういう感じで溢れている。

『史通』は大きく分けて史書そのものについて論じた「内篇」とその具体的な記述内容を論じた「外篇」に分かれている。例えば「外篇」の疑古第三では三皇五帝の話を取り上げ、意訳すると「堯が息子の不肖を知って舜に禅譲した?或る書には『舜は堯を平陽に放った』という記述があるし、『囚堯城』という城がある。禅譲なんて疑わしいよね。」「舜って蒼梧の野で死んでいるんだけど、此処って漢代で言う零陵や桂陽の地域だよね。そんな僻地で死ななければならないその意味は?項羽が楚の義帝を長沙郴県に徒したりその他の君主を廃した時の事例を見たら明らかだよね。」みたいな感じである。正直、読んでいて楽しい。

分厚いが、一方で字は大きく行間もあるので読み易い。個人的には歴史に関する面白い読み物として見なして差し支えないと考えている。時間がある時に拾い読みしておきたい。

世界史に関する本を購入してみた

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或る書店の触れ込みに曰く、東大早稲田慶応でよく売れている世界史の本。今日購入したばかりなので、まだ読了していない。

本書はウィリアム・H・マクニールによって執筆されたが、元々の執筆動機はオックスフォード大学の授業の使用に耐えられる程度の適度な分量に収まること。それまでは全十巻にも及ぶ大著を教科書に使用することになっていたらしい。なんともため息が出る話である。

さてそのようなわけで、冒頭を読んでみた限りではとても読み易い印象。あっという間に読み進めることができそうだ。よく考えると世界史の本と言えばあまり持っていない。恐らく持っている本の中で、体系的に世界史を述べているのは岩波新書(青)のH.G.ウェルズ『世界史概観』くらいだとおもう。

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漠然とした世界史の流れはあまり把握していないのだけれども、一般教養程度には知っておく必要はあるかも知れない。別に中国古代史偏重の揺り戻し、という意図は無いのだけれども。

趙炳清『蜀鑑校注』(国家図書館出版社)

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宋の郭允蹈『蜀鑑』に対して校注した書籍。先秦時代から北宋時代に至るまで1200年間にわたる蜀の攻防が記されている。その目的は南宋存続のために蜀の地が重要であることを示すため。繁体字なので簡体字に慣れていない私にとっても読み易く、そして注釈が豊富なので本文中の単語も理解しやすい。記述は非常に簡潔で、行軍や攻略に必要な箇所を除いて、殆ど会話文は無い。また地名は沢山出てくるが地図の類は一切出てこないため、『水経注図』や『中国歴史地図集』を手元に置いておかないと厳しいように思う。

難しい経学用語は殆ど出ず、誰が何時何処を攻めてどうなったという記述が続くため、さくさく読める。本文中の記事をもう少し詳しく知りたいと願うなら、注釈を手がかりに史料を調べると良いかと考えられる。

尚、私の持っているのは初版本で、繁体字だけで構成されているはずなのに時々簡体字が見受けられたり、巻末附録のページが乱調気味と大変微笑ましいが、読了する上で大きな支障も無いし、購入したのが大分昔で今更交換もできないと思うのでこのまま使用し続ける所存である。

マイケル・サンデル『公共哲学』(ちくま学芸文庫)

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

2010年にNHKで放映されたサンデル教授の白熱教室は、私も深夜に視聴したことを覚えている。様々なテーマをわかりやすく提示し、議論を導いていく様子は本当に視聴のし甲斐があった。しかし、一方でサンデル教授の思想は一体何であろう、何を目指しているのだろうか、という疑問をつい最近になって抱くようになった。

その結論というわけではないが、本書はサンデル教授が目指している方向性を示してくれる。それはタイトルにあるように公共哲学だ。大小様々な30章、大きく分けて3部構成だが、いずれも過去に雑誌等で発表した記事の再録が中心だ。具体的な事例から徐々に理論的で哲学的な内容に入っていく。主題や結論は各記事冒頭に提示されるため、これから何を論じようとしているのかわかりやすい。結論から言えば、多様な立場の人に見せることをかなり意識している。サンデル教授はアメリカでポピュラーなテーマを扱いつつ、以下のように論じる。

こんにちの自己統治において要求されるのは、地域から国家、さらには世界全体にいたるまでの多様な環境のなかで、みずからの役割をまっとうする政治である。…(中略)…こうした勢力に打ち勝つ、あるいは少なくともそれと戦うために必要な市民的資源は、依然として場所や物語、記憶や意味、出来事やアイデンティティのなかにある。こうしたものが、われわれを世界のなかに位置づけ、われわれの生活に道徳的独自性を与えてくれるのである。
(「第1章 アメリカにおける公共哲学の探究」p.58~59)

われわれに必要な政治哲学が問うのは、自己統治やそれを支える市民道徳にふさわしい経済制度は何かということだ。市民社会再生のプロジェクトが重要なのは、政治的対立を和らげる方法を提供するからではない。そうではなく、アメリカの民主主義が健全であるためにはそれが必要だからだ。
(「第5章 礼節をめぐる問題」p.93)

三十年をへてもなお、革新の衝動は説得力のある声を取り戻せていない。われわれは依然として強力な理想主義を必要としている。それがわれわれに思い起こさせるのは市民性であり、市民性とは消費社会のための基礎訓練を超えた何かから成るものなのだ。
(「第7章 ロバート・F・ケネディの約束」p.104)

サンデル教授は市民によるコミュニティの復権を訴える。妊娠中絶や同性愛などの込み入った議論では宗教的、道徳的な意見を全く抜きにして価値判断できないし、或るコミュニティ多数派の価値観が少数派の価値観と比べて優れているわけでもない(そのように断じる根拠もない)。サンデル教授の掲げる公共哲学は特定の価値観に偏らない多元主義の中で育まれ、議論の解として複数の答えがあり得ることを示している。

軽い語り口で差別や偏見、政治といった難しい問題をサンデル教授は取り扱う。その背景にはカントやデューイ、ロールズ等の哲学を通じて培った素養がある。文章は丹念に読めばそれほど難解ではない。そうであればこそ、逆にサンデル教授の頭の回転の良さが際立ってくる。サンデル教授の掲げる多元主義、公共哲学に賛同できるかどうかは別として、恐らく一時代を代表する論者ということになるのだろう。

ブルーノ・ラトゥール『科学論の実在―パンドラの希望』(産業図書)

科学論の実在―パンドラの希望

科学論の実在―パンドラの希望

サイエンス・ウォーズという科学哲学における論争の中心メンバーの一人、ラトゥールの著作。本書のきっかけは友人の『あなたは実在を信じますか?』という問いであったという。それはつまり「主体‐客体」という二分法によるモダニズムの決着法を信じるのか、という問いに還元される。ラトゥールはこの問いに対し、それらとは異なる「人間‐非・人間」というノンモダンの決着法を提案しようとする。本書はこの「人間‐非・人間」という関係性を説明するための膨大な証明である。

何故ラトゥールは「人間‐非・人間」というあり方を提案するのか。それはサイエンス・ウォーズが構築主義と実在論のいずれかの立場に立つことを強要してきたからだ、との認識がある。論争の渦中に巻き込まれたラトゥールにとって、この一連の論争は非常に不毛であると映ったようだ。

換言すれば、科学論のプロジェクトは、科学の闘士が人々に信じさせようとしていることとは逆に、科学と社会の間には「何らかの結び付き」が存在するのだというア・プリオリに主張するのものではない。というのも、この結び付きが存在するかどうかは、それを確立するためにアクターたちが行ったことや行わなかったことに依存しているからである。科学論は単に、この結び付きが存在するときに、それを究明するための方法を提供しているに過ぎない。

ラトゥールは本書の中でこのように言及し、激しい論争の中で荒廃してしまった科学論の舞台を復興させようとする。しかし、一方で

確かに科学論はある説明を与えるのだが、それは、集合体的な存在から科学の諸分野を摘出することによって得られた社会という無用な概念の人為的な起源についての説明である。この摘出手術のあとに残るのは、一方に人間だけからなる社会と、他方に概念的なコアだけである。

と述べ、科学論が単に科学の専門的な説明と社会的要因を結び付けるだけでは、お互いに無関係な文脈が併記されているに過ぎなくなる。そのため、ラトゥールは「社会」という概念を捨て去ることによってこの事態を解決しようとする。

ラトゥールが「社会」という概念を捨て去るのに用いたのは、なんとプラトンの『ゴルギアス』におけるソクラテスとカリクレスの問答であった。ソクラテスはカリクレスの議題を巧妙にすり替え、単純化することで論破した。同様に、社会学者は「権力」から「理性」を完全に分離し、まるで「権力」に「理性」が伴っていないかのような前提で議論を行う。しかし、カリクレス自身もそのような想定をしていないように、アテネの民衆たちに道徳や秩序が未だかつて完全に欠落していたことはない。それはあくまで観念上の産物であって、実際に生きる民衆を適切に描写していない。そしてそれと同様に、未だかつて「理性」を全く伴わない「権力」は存在しない。つまり要約するとこうだ。

〈理性〉の定義の中に〈権力〉の定義と共通しない特徴は全く存在しないのである。したがって、両者のあいだを行きつ戻りつしたり、片方を犠牲にしてもう一方を拡大しようとしたりしても、得られるものは存在しない。しかし、〈権力〉/〈理性〉という双子のリソースが発明された場所と状況、すなわちアゴラに注意を向けるなら、すべてが得られるだろう。

結局、ラトゥールが言いたいことは何であったのであろうか。「人間‐非・人間」という決着法を示すため、アマゾン流域での土壌研究やパスツールの細菌研究、果ては古代ギリシャの古典まで引用した。結論の中でラトゥールは次のように述べる。

外側の世界など存在しない。しかし、それは、世界が存在しないからではなく、内側の精神も存在しなければ、論理学という狭い小道以外には何も頼れるものがない言語の囚人も存在しないからである。言語に浸った孤独な精神にとっては、世界について本当のことを話すことは信じられないくらい稀なことであり、危険な仕事なのかもしれない。けれども、身体と装置と科学者と制度からなる、豊かに血管を張りめぐらせた社会にとっては、極めて当たり前の実践である。世界それ自体が分節化されているがゆえに本当のことを話すのであって、その逆ではない。

要約すると、ラトゥールの言わんとしていることは理論負荷性である。例えばある行為の観察を行ったとすると、その観察の結果が元の前提条件に影響を与える。主体‐客体の二分法では客体たるべき観察対象が、一つのアクターとして振舞うのである。そこには翻訳、分節化、委任、外向推移、下方推移といったプロセスが関与する。そこには主体と客体という単純な二分論は存在しない。科学において世界を叙述するということは、斯様にして絶えずお互いに関与しつつ修正を繰り返す循環プロセスである。私はラトゥールの主張をこのように理解した。

この本に関して文章を書くため、私は何度も繰り返し読み直したことをここに告白する。最初の2,3回だけでは本書の言わんとするところ、議論の目的と結論が把握できなかった。5回くらい読み返したときに論点が薄っすらと見え始め、ようやく文章にできるところに漕ぎ着けた。本当はラトゥールと意見を異にする著作を読み、もっと知識を深めていかねばならぬのかも知れないが、今の私では上述のような稚拙な文章を書くのが限界であった。もう少し色々な本を読み、より深い論議ができるようになりたいと思う所存である。

スチュアート カウフマン『自己組織化と進化の論理』(ちくま学芸文庫)

生命はどのように誕生し、そして進化したか。それが本書のテーマである。序盤は生命誕生の所以を考察し、中盤に入ると進化の過程を解き明かす。そして終盤ではそれらによって明らかになった自己組織化の理論を用いて我々の日常生活や経済活動に関して論及する。本書の構成は凡そこのような具合である。

最初のテーマは「生命はどのようにして誕生したか?」ということである。生命を持たないただの有機物の集合体が、如何にして生物と為り得たか。哲学者ベルクソンが提唱した生命衝動という生気論によってか?偶然にもDNAが合成されたからか?本書ではその何れに対してもNoと答える。生気論はその場凌ぎの理屈に過ぎないし、DNAも単独で自己複製し得ない。DNAが自己複製するには酵素やその他複雑なシステムがあってこそなのだ。偶然にDNAが合成されても、それが直ちに生命の創造には繋がらないのである。そしてそれが起こる確率は『竜巻きが物置を襲って、そこにあるものを使ってボーイング747を組み立てるという偶然が起きるのと、同じ程度』と本書で言及している。

それでは生命体は途方もない奇跡によって誕生したのであろうか。ここで登場するのが自己組織化の理論である。つまり、ある化学物質のスープにおける分子の種類がある閾値を超えると、自己触媒的な物質代謝が登場するというものである。先ほどの意見が「生命の誕生は偶然」としていたのに対し、「生命の誕生は必然」と主張しているという意味で決定的に異なっている。そしてそれぞれが共進化していくことで生命は進化する。これを本書では「無償の秩序」と呼ぶ。

それでは進化の過程はどうなのであろうか。ダーウィンの進化論によれば、進化は偶然に起きた突然変異の中で最適なものが生き残るという自然淘汰説を採る。しかし、もしランダムに進化してその中の最適な変異体を模索するとなると、それは膨大な試行錯誤法になってしまい、無限ともいえる時間が要求される。その解決策として、本書で導入されるのがNKモデルだ。NKモデルとは「N個の遺伝子」と「K個の他の遺伝子の対立因子」から適応度を算出する方法で、”K=1″とは1個の遺伝子は他の1個の遺伝子の影響を受けるということであり、”K=N-1″とは自分以外の遺伝子の影響を全て受けるということを意味している。このモデルに基づき、遺伝子は互いに作用しあって突然変異を起こしながら、その地形に最適な進化形態を模索するのである。これをNK適応地形という。このNKモデルを正しく理解しないと、本書の中盤以降の理解が全く進まないことになる。しかし、だからといって詳述するとキリがないので結論から先に述べると、このNKモデルによって分かることは以下のようになる。

進化は、はじめはあちこちの方向へ分岐し、しかも分岐した先の変種がたがいにまったく異なるものであるが、適応度が高くなるにつれてしだいに似たような変種へ向けて、数少ない分岐しかしないという状態へ落ちていく。

このNKモデルが遺伝子間の相互作用、つまり単体種の進化について述べるのと同じように、生態系における生物間の相互作用に適用するモデルが存在する。それが進化的に安定な戦略(ESS)と呼ばれるモデルで、NKモデルに「種の間の相互作用C」と「別の種のと関係数(パートナーの数)S」を加えたものである。このモデルにおいて生態系の進化の過程をシミュレートすると、以下のようになる。

進化の過程において、生態系は自己調節して秩序とカオスの間の転移領域に移動し、生態系は適応度を最大にし絶滅の平均割合を最小にするのである。その過程で、大小さまざまな雪崩現象が起こる。雪崩は、ある場合には系全体にわずかなさざ波を起こすだけかもしれないし、またある場合には生態系全体を大きくゆるがすかもしれない。われわれはみんな、舞台の上である一時期だけいばって歩いたりくよくよしたりして、その後、音もなく消え去ってしまう、そんな役者なのである。けれどもみんなで協力し、しかも知らない間にその舞台を調節しているので、非常に長い目で見ると、結局誰もが一番幸せだったということになるのである。

この一連の研究が示すものはいったい何か。それはもはや明白である。このモデルを受容するということは、生命誕生や進化の過程でそれを主導する、言い換えれば司令塔的役割を担う存在などいないということを意味する。カオスの縁で相転移を繰り返しつつ、あるべき地点に収束する。しかし、それでは諦観に陥りはしないか。本書を読みながら私は疑念を持ったが、その疑念に対してはちゃんと回答が用意されていた。

われわれの最善の努力が最後には先の見えない状態に変わってしまうのなら、どうして努力する必要があるのか。なぜなら世の中がそうなっているからであり、われわれはその世の中の一部だからである。生命とはそういうものであり、われわれは生命の一部なのである。われわれのような、生命の歴史の中でずっと後になって生まれた歴史の役者はおよそ四十億年もの間生物が拡大していった生命の長い歴史の相続人である。その過程に深くかかわることが、畏敬の念に値せず神聖なものではないというのなら、それ以外に神聖なものがあるだろうか。

複雑系の進化モデルの行きつく先は、どうもある種の悟りのようである。読者の全員が同じ悟りを開くとは思えない。しかし、我々人類はそうやってお互いがお互いを意識しながら苦悩し、煩悶しながらあるべき姿に収束していくのだろう。

M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫)

本書は読書の方法について伝える本である。勿論、方法というからには技術的な箇所がメインになるのだが、特徴的なのはそれ以上に読者としての心構えが説かれている点だ。表面的に技術論を語るだけなら、1940年代に出版された本書が現在まで読み継がれるということはあるまい。実際、私は過去に速読術に関する本を何冊か購入したこともあるが、その本は全て既に売り払うか廃棄処分して書棚には残っていない。

まず、著者は現在(執筆当時)の状況について次のように語る。

情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。…(中略)…理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。…(中略)…カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。
(「1 読書技術と積極性」p.14~15)

この傾向は今でも変わらない。むしろ、インターネットで検索して必要な回答がすぐ出てくる分、この傾向は更に進んでいるのではなかろうか。読書の目的は自ら情報を取得し、分析し、意見を述べることにある。また精神を成長させることである、とも述べている。勿論、読書には他にも情報取得のための読書、というのもあるが著者が重視しているのはそこではない。

読書には段階がある。その文章の意味を理解し、アウトラインを掴み、著者の意見を理解し、それに対して批評を加える。更にあるテーマに沿って複数の著書を読む場合は、それぞれの論点を整理して比較する。アウトラインを掴む程度で十分とされる本もあれば、入念に分析・批評を加えるに値する本もある。技術論的なところは割愛するが、以下、私がこの本を読んでなるほどその通り、と感じた箇所である。

知識を実用化するためには、知識を行為の規則に作り変えねばならない。「実態を知ること」から、「どうしたら目的に達することができるかを知ること」に移行しなくてはならない。つまり、事実を知ることと、方法を知ることの二つになる。
(「6 本を分類する」p.76)

ふつう、読者は、事実や知識について率直に意見を表明していることを前提に読む。著者個人に対する興味から読む場合はそれでもよいが、本の内容を本当に理解しようとするなら、著者の意見がわかっただけでは十分ではない。「はっきり根拠が示されていない限り、著者の命題は個人的な意見にすぎない」からである。読者は命題を知るだけではなく、「その命題をたてるにいたった理由」を理解しなくてはならない。
(「9 著者の伝えたいことは何か」p.127)

著者の関連知識が不足しているか、誤っているか、論理性に欠けるか、のどれかが立証できない限り、読者には反論する資格はない。「あなたの前提には何も誤りはない。推論にも誤りはない。だが、私としては結論に賛成できない」ということは許されない。それは、結論が「気に入らない」と言っているだけで、反論とは言えない。著者に説得されたのなら、そのことは率直に認めるべきである。
(「11 著者に賛成するか、反論するか」p.169)

著者は読書のことを「一対一の対話」と表現する。対話であるが故にそこには最低限のルールや配慮が存在する。また、何度でも対話するに値する相手もいれば、1回だけで事足りる場合も、そしてそもそも対話する必要すらない相手もある。そのような判断を下す基準は何か。著者は以下のように述べる。

すぐれた書物ほど、読者の努力に応えてくれる。むずかしいすぐれた本は読書術を進歩させてくれ、世界や読者自身について多くを教えてくれるからである。単に知識をふやすだけの、情報を伝える本とは違って、読者にとってむずかしいすぐれた本は、永遠の真実を深く認識できるようになるという意味で読者を賢くしてくれる。
(「15 読書と精神の成長」p.249)

理解が深まり成長すればするほど永遠の真実に近づく、という論述はヘーゲル的な歴史認識を思わせる。が、ここで重要なのはそういう話ではない。読者が多くの良書に触れることで見識を深め、世の中の出来事に対して本質を掴む(という表現が適当なのかはわからないが…)ことが可能になる。冒頭に述べたような、マスコミの提供する知的パッケージをそのまま鵜呑みにして他者の意見に流されることがなくなるだろう。私自身がその境地に達しているとは到底言えないけども、そうなるようには努力しているつもりだ。このblogも半分は読書記録という意味合いがあり、この本の掲げる主題を達成できれば良いな…と思う次第である。

当然、自ら判断せず多数派の意見に乗っかり続け、誰とも衝突しない無難な生き方を選択することも可能だ。その場合は、ここまで深く読書をすることは必要ないだろう。読書に対する姿勢、それはその人の生き方も表すのかも知れない。