漢代の州従事について(厳耕望氏の著作より)

昨日、Skypeでむじんさんやにゃもさんと話をしていて、州従事について言及があった。その際、私はこの役職がどのような役割を負っているのか具体的なところを掴んでいなかったため、その概要について厳耕望『中国地方行政制度史―秦漢地方行政制度』(上海古籍出版社)の州従事の項目を調べて見た。すると、凡そ以下のような仕組みになっていたことが判明する。本当はせめて手持ちの文献である大庭脩氏や王勇華氏、小嶋茂稔氏の著作を参照した上で言及する必要があるのだろうが、今回はとりあえず割愛する。

漢代で州従事に言及するのは前漢の宣帝の時代。ただし、このときの従事は州刺史に同行する意味の一般動詞であって、固有の官職を意味してはいない。州従事が正式な官職として登場するのはそれよりも更に時代が下った元帝期であり、その秩禄は百石(刺史は六百石)である。州従事には部下がおり、これを假佐(書佐)という。

州の官吏の筆頭は別駕従事史であり、元々、州刺史と駕を別にして同行したことに由来する。特に後漢末になると州刺史・州牧に就いた群雄が「股肱」「謀主」として招聘することになる。一方、主簿は州内における地位が非常に低いのであるが、州刺史に関する事務及び州の文章を管轄しているため、州刺史の個人秘書とか側近のような性質を持つ。また、主簿は假佐の筆頭でもある。

治中従事史は州の官吏の任用や州内の綱紀を司り、ちょうど郡県の功曹に相当する。書佐は治中従事史の職務をサポートする。司隷校尉部では治中従事史ではなく功曹従事史と称する。

各郡国の監察に派遣されるのが部郡国従事史であり、假佐は典郡書佐という。郡国における文書管理と監察業務がその任務であるが、文書管理は典郡書佐に委任され、部郡国従事史は郡国の監察業務を主に担当する。その権限は非常に大きく、郡県の官吏・守相の悪行を見つけると上奏して罷免したり、下獄の措置を執る。郡レベルで言えば、督郵がその職務に相当する。

他、師友従事や従事祭酒の名前も史書に散見されるが、これらは「栄誉散員」とあり、恐らく名誉職や顧問職のようなものなのだろう。

主要な箇所としてはこのような感じだが、後漢末で各群雄が自立し始めると州刺史・州牧の俗吏に司馬や長史などが設置されるようになる。漢代の州従事は秩禄が低いが、権限たるや非常に大きい。今後、史書を読む際の参考にしたいと思う。

班固『白虎通』巻一 爵 (4)

王者太子亦稱士何?舉從下升,以為人無生得貴者,莫不由士起。是以舜時稱為天子,必先試于士。《禮士冠經》曰:「天子之元子,士也。」

今回の段落は非常に短い文章となっている。主題は「王や太子を士と称するのは何ででしょうね?」という疑問である。この文章の注釈で陳立が述べているが、天子や諸侯が後を継いで国のトップに立っていたとしても、爵位を賜わなければ「士」の階級と同列とされたようである。この根拠として陳立は『禮記』王制編や『春秋公羊傳』僖公五年の注釈などを引用している。

ところで天子は爵位であり、爵位を賜わなければその地位にあっても士と同列と見なされるのであれば、果たして天子の爵位を与えるのは誰なんでしょうね?天の意思が天子の爵位を賜る式を何らかの形で執り行っていたんでしょうか。嗚呼、これだから私は儀礼に疎くていけません…

班固『白虎通』巻一 爵 (1)

気力が続くうちに新しい記事を。
モチベーションが無くなると一気に更新ペース落ちますからね。
(2ヶ月に1回更新ペースとか…)

以前やっていたブログでも取り上げた『白虎通』ですが、この書物は漢代の制度や考え方について興味深い記述をしています。

そもそも『白虎通』はどうして編纂されたのか復習いたしますと、後漢初期、儒学には大きく分けて古文学派と今文学派に分かれておりました。その為、章帝の頃に制度・文化的な問題を議論するために学者・官僚が白虎観に集いました。この結果は『漢書』の著者でもある班固によって纏められ、『白虎通』となりました。『白虎議奏』『白虎通徳論』『白虎通義』とも称しますが、いずれも同じ書物です。

今回は清代の陳立によって校釈された『白虎通疏証』をベースに本文を紹介していきます。

天子者,爵稱也。爵所以稱天子者何?王者父天母地,為天之子也。故《援神契》曰:「天覆地載謂之天子,上法斗極。」《鉤命決》曰:「天子,爵稱也。」帝王之紱有優劣,所以俱稱天子者何?以其俱命於天,而王治五千里內也。《尚書》曰:「天子作民父母,以為天下王。」何以知帝亦稱天子也,以法天下也?《中候》曰:「天子臣放勳。」《書亡逸篇》曰:「厥兆天子爵。」何以言皇亦稱天子也?以其言天覆地載,俱王天下也。故《易》曰:「伏羲氏之王天下也。」

ここは「天子」という呼称が爵号である、と言及している段落です。この本文に対する注釈は色々ありますが、簡略して云えば、天下を治め民の頂点に立つ聖人に与えられる称号、と解釈すべきでしょうか。尚、この段落の出典は今文学の書籍が中心となっています。

崔寔『政論』

 司馬光『資治通鑑』巻五十八の漢紀四十五に掲載されている崔寔の『政論』。この当時(元嘉元年)は梁冀が権勢をほしいままにし、一方で京師で旱魃や地震が発生したり、匈奴や武陵蛮が反乱を起こすなど内憂外患の様相を呈しておりました。その際に以下のような文章を著して当時の世相を批判しています。尚、同様の文章は范曄『後漢書』崔寔伝、袁宏『後漢紀』孝皇桓帝紀上にも掲載されておりますが、いずれも引用内容は微妙に異なります。分量からして『後漢書』が正しいのかもしれませんが、その辺りは厳密な検証をしていないので何とも言えません。

 凡天下所以不治者,常由人主承平日久,俗漸敝而不悟,政浸衰而不改,習亂安危,怢不自睹。或荒耽耆欲,不恤萬機;或耳蔽箴誨,厭偽忽真;或猶豫歧路,莫適所以;或見信之佐,括囊守祿;或疏遠之臣,言以賤廢。是以王綱縱弛於上,智士郁伊于下。悲夫!自漢興以來,三百五十餘歲矣,政令垢玩,上下怠懈,百姓囂然,鹹復思中興之救矣!且濟時拯世之術,在於補衣定決壞,枝拄邪傾,隨形裁割,要措斯世於安寧之域而已。故聖人執權,遭時定制,步驟之差,各有雲設,不強人以不能,背急切而慕所聞也。蓋孔子對葉公以來遠,哀公以臨人,景公以節禮,非其不同,所急異務也。俗人拘文牽占,不達權制,奇偉所聞,簡忽所見,烏可與論國家之大事哉!故言事者雖合聖德,輒見掎奪。何者?其頑士暗於時權,安習所見,不知樂成,況可慮始,苟雲率由舊章而已。其達者或矜名妒能,恥策非己,舞筆奮辭以破其義。寡不勝眾,遂見擯棄,雖稷、契復存,猶將困焉。斯賢智之論所以常憤郁而不伸者也。
 凡為天下者,自非上德,嚴之則治,寛之則亂。何以明其然也?近孝宣皇帝明於君人之道,審於為政之理,故嚴刑峻法,破奸軌之膽,海內清肅,天下密如,逄計見效,優於孝文。及元帝即位,多行寬政,卒以墮損,威權始奪,遂為漢室基禍之主。政道得失,於斯可鑒。昔孔子作《春秋》,褒齊桓,懿晉文,歎管仲之功,夫豈不美文、武之道哉?誠達權救敝之理也。故聖人能與世推移,而俗士苦不知變,以為結繩之約,可復治亂秦之緒;干戚之舞,足以解平城之圍。夫熊經鳥伸,雖延歷之術,非傷寒之理;呼吸吐納,雖度紀之道,非續骨之膏。蓋為國之法,有似治身,平則致養,疾則攻焉。夫刑罰者,治亂之藥石也;德教者,興平之粱肉也。夫以德教除殘,是以粱肉治疾也;以刑罰治平,是以藥石供養也。方今承百王之敝,值厄運之會,自數世以來,政多恩貸,馭委其轡。馬駘其銜,四牡橫奔,皇路險傾,方將拑勒鞬輈以救之,豈暇鳴和鑾,請節奏哉!昔文帝雖除肉刑,當斬右趾者棄市,笞者往往至死。是文帝以嚴致平,非以寛致平也。

 詳細な解釈は手間がかかるので避けますが、話の流れは(1)現在の政治は綱紀が弛緩しているという旨を批判、(2)政治は「厳」を以て臨むべきであって「寛」であっては政治が乱れることを述べています。そして文帝の法に厳たる治世を手本とする一方、元帝の寛を基調とする政治が漢室の災いになっていると指摘しています。つまり崔寔は前漢の事例を引用することで梁冀批判を展開したわけです。

 ところが批判された当の梁冀は崔寔を自らの府に辟召します。最初は辞退しますが後に議郎を拝して大将軍司馬に遷り、辺韶、延篤らと『東觀漢記』の編纂に関与します。五原太守に転出した後、一時は梁冀が誅せられた後に門生故吏ということで数年の禁固を余儀なくされますが、基本的に辺縁部の太守を歴任します。建寧年間に死去すると家には殯を斂するだけの余力も無かったようですが、楊賜・袁逢・段熲らによって準備がなされ、袁隗によって碑が建てられます。楊賜は弘農楊氏、袁逢・袁隗は汝南袁氏で共に四世三公の家系、段熲は「涼州三明」とも謳われた勲功赫々たる将軍。崔寔の築き上げた人脈が偲ばれますね。

福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』(創文社)

漢代官吏登用制度の研究 (創文社東洋学叢書)

漢代官吏登用制度の研究 (創文社東洋学叢書)

積ん読している書籍を紹介してきます。

最初は『漢代官吏登用制度研究』という研究書。約500ページにわたって前漢後漢の両代にわたっての察挙制度の特質について詳説しています。

誰にどのような権限があって、どのような人物が対象であるか。また秩禄と察挙体制の関係、魏代に成立した九品官人法の影響など、非常に興味深い論考になっています。

人材登用制度について宮崎市定『九品官人法の研究』は必読ですが、同時に本書も余力があれば読んでおくべきかと思います。

班固『白虎通』巻九 姓名 (4)

人所以有字何?所以冠徳明功,敬成人也。故《礼士冠経》曰:「賓北面,字之曰伯某甫。」又曰:「冠而字之,敬其名也。」所以五十乃称伯仲者,五十知天命、思慮定也。能順四時長幼之序,故以伯仲号之。《礼檀弓》曰:「幼名冠字,五十乃称伯仲。」《論語》曰:「五十而知天命。」称号所以有四何?法四時用事先後,長幼兄弟之象也。故以時長幼号曰伯仲叔季也。伯者,長也。伯者,子最長迫近父也。仲者,中也。叔者,少也。季者,幼也。適長称伯,伯禽是也。庶長称孟,魯大夫孟氏是也。男女異長,各自有伯仲,法陰陽各自有終始也。《春秋伝》曰:「伯姫者何?内女也。」婦人十五称伯仲何?婦人質少変,陰道促蚤成,十五通乎織紝紡績之事,思慮定,故許嫁,笄而字。故《礼経》曰:「女子十五許嫁,笄。礼之称字。」婦人姓以配字何?明不娶同姓也。故《春秋》曰:「伯姫帰于宋。」姫者,姓也。質家所以積于仲何?質者親親,故積于仲。文家尊尊,故積于叔。即如是,《論語》曰:「周有八士,伯達、伯适,仲突,仲忽,叔夜,叔夏,季随,季騧。」不積于叔何?蓋以両両倶生故也。不積于伯、季,明其無二也。文王十子,《詩伝》曰:「伯邑考,武王発,周公旦,管叔鮮,蔡叔度,曹叔振鐸,成叔処,霍叔武,康叔封,南季載。」所以或上其叔、季何也?管、蔡、霍、曹、霍、成、康、南皆採也,故置叔、季上。伯邑考何以独無乎?蓋以為大夫者不是採地也。

姓名に関する記述の最後。字に関する話題。字を有する所以は「徳を冠し功を明らかにし、成人を敬う所以なり」ということで、言い換えれば相手に対する敬意である。周代の頃は50歳を過ぎると20歳の頃の字を捨て、敬意を以て「伯仲」を字とする習慣があったらしい。「所以五十乃称伯仲者…」の件はその習慣に由来する。

字のルールに関してはネット上で広く論じられているので今更繰り返す必要もないと思うが、とりあえず述べておく。兄弟の長幼によって字に関する文字が変わる。年長から順に伯、仲、叔、季。嫡子は「伯」の字を用いるが、庶長子の場合は「孟」の字を字に用いる。

女性は15歳で一人前となって嫁に嫁いでも問題なくなる為、成人(笄)する。男性と異なり家門を表す氏ではなく姓を用いた「字+姓」の構成になるのは、同姓不婚の原則を貫く為。

最後の箇所は解釈にイマイチ自信が無いのだが、『詩伝』で引用する管叔鮮以下は基本的に「姓+叔or季++名」の構成になっいて、どうやら是が周代のルールだったらしい。一方、「伯邑考」に叔や季の字を置いていないのは、「伯邑考は大夫の階層だから、そんなルールには縛られない!」ということらしい。ここから読み取れるのは、周代における姓名の呼称は漢代以降と必ずしも同一では無さそうだ、ということである。もちろん、昔ながらの名残が続いていることもあるだろうが、そうでないことも意識ながら読まないといけない。

姓名に関しては他に『禮記』を筆頭に参考となる書籍が色々あるので、これらを参照しながら当時の実情を勘案しつつ調べていかないといけない。『白虎通』一冊だけで簡単に判断できるものではないのだ(という言い訳で〆)。

狩野直禎『後漢政治史の研究』(同朋舎出版)

後漢政治史の研究 (東洋史研究叢刊)

後漢政治史の研究 (東洋史研究叢刊)

文字通り後漢時代の中央政界の動向に焦点を当てた文献。

全体の分量の4割前後は光武帝が統一するまでのプロセスで占められており、新末後漢初時代の各独立勢力の動向について纏めているのが特徴的である。その後、章帝期までは宗族や三公の動向を交えながら全体的な流れを追っている。しかし皇帝親政の時期が終焉し、外戚が権勢を握るようになった頃から執筆のスタンスが変わり、当時の名臣(第五倫、張皓、楊震、李固、劉陶、趙岐など)の動向に焦点を当て、当時の政治動向を解説している。

論文の執筆年代、内容からして東晋次『後漢時代の政治と社会』が似たようなテーマを志向しているため、セットで読むのが面白いと思う。互いに互いの論考に言及している。

後漢時代の研究を着手するに辺り、政治的な動きを把握したい場合には読む価値があるのではないかと考える。ただし異民族、特に羌と匈奴についてはそれぞれ佐藤長『チベット歴史地理研究』、内田吟風『北アジア史研究―匈奴編』に詳述されているとして、大きく触れられてはいない。その為、この時代の羌や匈奴について専門的に調べる場合は、本書ではなくて先に挙げた2冊を参照すると良いと思う(ただし容易に手に入る環境ではないと思う)。

班固『白虎通』巻一 爵 (2)

爵有五等,以法五行也。或三等者,法三光也。或法三光,或法五行何?質家者據天,故法三光。文家者據地,故法五行。《含文嘉》曰:「殷爵三等,周爵五等。」各有宜也。《王制》曰:「王者之制祿爵,凡五等。」謂公侯伯子男也。此據周制也。《春秋傳》曰:「天子三公稱公,王者之後稱公,其餘大國稱侯,小者伯子男也。」《王制》曰:「公侯田方百里,伯七十里,子男五十里。」所以名之為公侯者何?公者,通也。公正無私之意也。侯者,候也。候逆順也。人皆千乘,象雷震百里所潤同。伯者白也。子者,孳也。孳無已也。男者,任也。人皆五十里。差次功德。小者不滿為附庸。附庸者,附大國以名通也。百里兩爵,公侯共之。七十里一爵,五十里復兩爵何?公者,加尊二王之後;侯者,百里之正爵。上可有次,下可有第,中央故無二。五十里有兩爵者,所以加勉進人也。小國下爵,猶有尊卑,亦以勸人也。殷爵三等,謂公侯伯也。所以合子男從伯者何?王者受命,改文從質,無虛退人之義,故上就伯也。《尚書》曰:「侯甸任衛作國伯。」謂殷也。《春秋傳》曰:「合伯子男為一爵。」或曰:合從子,貴中也。以《春秋》名鄭忽,忽者,鄭伯也。此未逾年之君,當稱子,嫌為改伯從子,故名之也。地有三等不變,至爵獨變者何?地比爵為質,故不變。王者有改道之文,無改道之實。殷家所以令公居百里,侯居七十里,何也?封賢極于百里,其政也,不可空退人,示優賢之意,欲褒尊而上之。何以知殷家侯人不過七十里?曰:士有三等,有百里,有七十里,有五十里。其地半者其數倍,制地之理體也,多少不相配。

この段落は五爵・三爵に関して言及している。五爵とは公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵であり、周の制度に由来する。一方の三爵はは公爵、侯爵、伯爵であり、殷の制度に由来する。この爵位による違いの一つは所有する土地の面積であり、公爵と侯爵は百里を、伯爵は七十里、男爵と子爵は五十里四方の土地を有する。三爵の場合は上から順に百里、七十里、五十里四方をそれぞれ有する。

またそれぞれの爵位の名前の由来もこの段落に示されている。公(=通)は公正無私に由来し、侯(=候)は雷震の音が百里先まで達することからその影響力を象っている。伯(=白)は『風俗通』や『春秋元命苞』でも言及しているが、徳に関して明らかである意味を持つ。子(=孳)は子孫が尽きることなく続くことを指し、男(=任)は功業を立て住民を教化することを指す。ちなみに『春秋左氏傳』の賈逵の注釈や『孔子家語』の王肅の注釈では、男は古来「南」の字であったと指摘する。

なお漢文を全て手で打ち込むのは面倒なので、基本的にはWikisourceをコピペしているが、手持ちの陳立『白虎通疏證』(中華書局)で確認すると随分と本文が異なっている。Wikisourceの引用している版本が何であるかは不明なので、信頼可能なテキストの方に合わせている。これだけで結構な手間である。

班固『白虎通』巻一 爵 (8)

大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。《春秋穀梁傳》曰:「追錫死者,非禮也。」《王制》曰:「葬從死者,祭從生者」,所以追孝繼養也。葬從死者何?子無爵父之義也。《禮中庸》記曰:「父為大夫,子為士,葬以大夫祭以士;子為大夫,父為士,祭以大夫葬以士也。」

追爵に関する記事。冒頭は「大夫功成りて未だ封ぜざるに而して死し、爵賜を追って得ざるの者、以て其れ股肱に当たらざる也。」とでも書き下せば良いだろうか。その次に引用されている『春秋穀梁傳』の記事は莊公元年の記事で、

【経】王使榮叔來錫桓公命。
【伝】禮有受命,無來錫命。錫命非正也。生服之,死行之,禮也。生不服,死追錫之,不正甚矣。
(『春秋穀梁傳』莊公元年)

が元々の本文。天子から爵を賜るのは生前に天子に服事した結果であって、生前に服事していない者が爵を賜るのは礼に反しているではないか、と『春秋穀梁傳』では難じているのである。ただし、これは今文学の立場としての批判であって、古文学を代表する『春秋左氏傳』では

【経】王使榮叔來錫桓公命。
(『春秋左氏傳』莊公元年)

と記すのみで、許愼『五経異義』が以下で指摘するように、死後に追錫すること自体を非難していない。*1

春秋公羊、穀梁説,王使榮叔錫魯桓公命,追錫死者,非禮也。死者功可追而錫,如有罪,又可追而刑耶?春秋左氏説譏其錫簒弑之君,無譏錫死者之文也。
(『通典』引『五経異義』)

この事実から陳立は、『白虎通』に記載の説は『春秋穀梁傳』に基づくものだろうとしている*2

さて、『禮記』王制篇の「葬は死者に従い、祭は生者に従え。」の実例は『中庸』に記されている。つまり、父と息子の階層が異なった場合、葬儀は父の階層、祭は息子の階層で実施すると言うことである*3

註3について、goushu氏から以下のご指摘があった。どうやら、私は陳立の注釈を逆に読み違えていたようです。ご指摘、感謝いたします。

注3の部分だけど、前の部分で「天子・諸侯の若(ごと)きは但だ祖父を追爵するを得ざるのみ。喪葬の事に至りては、亦た宜しく権に従うべし」とあって天子諸侯クラスは士大夫と違って葬式に関しては礼の規定から外れるんだと言っていて、そこで引用部分は漢の高祖と太上皇も例を引き合いに出しつつ、太上皇を天子の服ではなく士の服で葬儀を行うのは、子の高祖や臣下の情として受け入れがたいので、礼を曲げて天子の服で葬式を行う。その後の通常の祖先祭祀の場合は礼の規定どおり士の服で行う。と言っているんじゃないかと思います。

*1:他にも死後に追錫された例は、『春秋左氏傳』昭公七年の伝に記載の衛襄公がある。

*2:それが「追錫死者,非禮也。」のみなのか、「大夫功成未封而死,不得追爵賜之者,以其未當股肱也。」まで掛かってくる注釈なのかは判然としない。

*3:陳立は葬礼に関する様々な議論を引用しながら、「若然,則禮父為士,子為天子,祭以天子,其尸服以士服者,葬時之不可直士庶之制者,禮屈于情,一時之權。至祭時,乃人子之常事,而尸則死者之所憑,又不可服以天子之服,則仍依父生時之制也。」と述べ、たとえ天子であっても父が士庶の階層であったならば、葬は士庶の服で執り行うべきとしている。

日南郡の旧称について

TSさんが、象郡の名前の由来を募集していたので、探してみた。

『漢書』地理志の日南郡の箇所に以下の記述がある。

日南郡,故秦象郡,武帝元鼎六年開,更名。有小水十六,并行三千一百八十里。屬交州。

日南郡は秦の時代は象郡と称したらしい。何故この郡名かというと、『漢書補注』で王先謙が以下の注釈を加えている。

唐志因象山為名山形如象也。

この『唐志』という書物は恐らく『新唐書』か『舊唐書』の志を指すのであろうが、要は「象のような形の山があったから」というのが象郡の名前の由来のようである。