『後漢書』龐公伝

龐公者,南郡襄陽人也。居峴山之南,未嘗入城府。夫妻相敬如賓。荊州刺史劉表數延請,不能屈,乃就候之。謂曰:「夫保全一身,孰若保全天下乎?」龐公笑曰:「鴻鵠巣於高林之上,暮而得所栖;黿鼉穴於深淵之下,夕而得所宿。夫趣舍行止,亦人之巣穴也。且各得其栖宿而已,天下非所保也。」因釋耕於壟上,而妻子耘於前。表指而問曰:「先生苦居畎畝而不肯官祿,後世何以遺子孫乎?」龐公曰:「世人皆遺之以危,今獨遺之以安,雖所遺不同,未為無所遺也。」表歎息而去。後遂攜其妻子登鹿門山,因采藥不反。

『後漢書』逸民列伝に記載されている龐徳公の伝記。水鏡先生こと司馬徽、徐庶、龐統、諸葛亮等が絡むという意味では物語上の重要人物。ただ歴史的に見て重要かどうかと言うと、当時の世相を表現するエピソードの1つでしか無い。以下、書き下し文。

 龐公なる者は南郡襄陽の人なり。峴山の南に居り、未だ嘗て城府に入らず。夫妻相敬せられること賓の如し。荊州刺史劉表は数*1延かんとして請う*2も、屈せしむること能わず*3、乃ち之の候に就く*4。謂いて曰く
 「夫れ一身を保全するは、孰れか天下を保全すべきか?」
龐公笑いて曰く
 「鴻鵠は高林の上に巣くい、暮而して栖する所を得る。黿鼉*5は深淵の下に穴し、夕而して宿る所を得る。夫れ趣舍*6し行きて止む、亦た人の巣穴なり。且つ*7各其の栖宿を得るのみ。天下の保つ所に非ず。」
釈に因りて壟上に耕し、而して妻子は前に耘す。劉表指し而して問うて曰く
 「先生は畎畝*8に苦居し而して官禄を肯じえず、後世何を以て子孫に遺すか?」
龐公曰く
 「世人皆之を遺すを以て危とし、今独り之を遺すを以て安とす。遺す所同じからざると雖も、未だ遺す所無きを為さざるなり。」
劉表嘆息し而して去る*9。後に遂に其の妻子を携え鹿門山*10に登り、因りて薬を采して反せず。

とりあえずこの伝記を見る限りでは世俗と関わりを絶って動いているように見えるが、実際は司馬徽が龐公に兄事しながら徐庶や諸葛亮などの門下を育成し、龐公の息子は諸葛亮の姉を娶って魏に仕え、龐公自ら一推しの族子龐統を世に送るため司馬徽に評価させる等々。単に面倒毎が嫌で隠居していただけで、世間との関わりを完全に絶とうとはしていないのではないだろうか。

又はただ単に「劉表嫌われすぎワロスw」という話だけなのかも知れない。

*1:しばしば

*2:自陣営に引き入れようと要請しようとしたが、位の意味かな?

*3:登用失敗。

*4:機会を見つけて会おうとしたのか。なんとも執念深い劉表である。

*5:げんだ、と読む。大型のカメとワニの類らしい。

*6:進むことと止まること、又は取ることと捨てることという意味。『荘子』外篇・秋水第十七の「辞受趣舍」の単語が出典か。

*7:どういう用法だろう?わからない。

*8:げんぼう。田舎とか民間の意味。

*9:諦めたようだ。

*10:旧名を蘇嶺山。『襄陽記』によると、建武年間中に二つの石鹿を刻した襄陽侯習郁の神祠が建てられ、それが神道口を挟んだ格好になっているので俗に鹿門廟と称されるようになり、最終的にはその呼び名がそのまま山の名前になったという。

『後漢書』徐登伝

徐登者,閩中人也。本女子,化為丈夫。善為巫術。又趙炳,字公阿,東陽人,能為越方。時遭兵亂,疾疫大起,二人遇於烏傷溪水之上,遂結言約,共以其術療病。各相謂曰:「今既同志,且可各試所能。」登乃禁溪水。水為不流,炳復次禁枯樹,樹即生荑,二人相視而笑,共行其道焉。

登年長,炳師事之。貴尚清儉,禮神唯以東流水為酌,削桑皮為脯。但行禁架,所療皆除。

後登物故,炳東入章安,百姓未之知也。炳乃故升茅屋,梧鼎而爨,主人見之驚懅,炳笑不應,既而爨孰,屋無損異。又嘗臨水求度,船人不和之,炳乃張蓋坐其中,長嘯呼風,亂流而濟。於是百姓神服,從者如歸。章安令惡其惑衆,収殺之。人為立祠 室於永康,至今蚊蚋不能入也。

 徐登なる者は閩中の人なり。本は女子たるに、化して丈夫と為る。善く巫術を為す。また趙炳、字は公阿、東陽の人、能く越方*1を為す。時に兵乱に遭い、疾疫大いに起こり、二人は烏傷渓水*2の上に遇い、遂に結して言約し、共に其の術を以て病を療す。各相謂いて曰く「今既に志を同じくし、且に能とする所を各試するを可とせんとす*3。」徐登は乃ち渓水を禁ず。水は流れざるを為し、趙炳は復た次に樹の枯れるを禁じ、樹は乃ち生&#x8351す。二人相視て而して笑い、共にその道を行く*4
 徐登は年長じ、趙炳は之に師事す。清倹を貴尚*5し、神に礼して唯東に流るる水を以て酌を為し*6、桑の皮を削りて脯*7と為す。但し禁架*8を行い、療する所皆除す。
 後に徐登物故し、趙炳は東して章安に入るも、百姓未だ之を知らざるなり。趙炳乃ち故の茅屋に升り、梧の鼎に而して爨ぐ*9。主人之を見て驚懅するも、趙炳は笑いて応ぜず。既に而して爨孰し*10、屋は損異無し。又嘗て水に臨みて度を求め、船人は之を和せず、趙炳乃ち蓋に張り其の中に坐し、長く嘯きて風を呼び、流れ乱れて而して済る*11。是に於いて百姓神服し、従う者は帰するが如し。章安令*12は其の衆を惑わすを悪み、収めて之を殺す。人は祠を立てるを為し、永康*13に室すも、今は蚊蚋*14至り入ること能わず。

女性から男性にコンバートしたという異例な経歴の持ち主の徐登、及び禁呪を自在に操る道士の趙炳の列伝。互いに習得した能力を生かし、会稽郡烏傷県の付近で治療を施していたという。食事は水及び桑の皮というストイックさ。まぁそんなに出世欲が無かった(道士では出世できませんし…)からか、徐登が死んでからは沿岸部の会稽郡章安県に移住して質素な暮らしをしていたという。が、『抱朴子』に載るような能力の持ち主が注目されないわけは無く、奇跡を起こして住民を心服させるや、県令の嫉妬を買って殺されてしまいました…という話。何故か趙炳の祠は烏傷県と章安県の中間辺りに位置する永康の地にあったらしいが、蚊蚋が沢山いて中には入れないという。何という不気味な状態。誰か掃除してやれよ、とか思ったり。何なんでしょうね。

*1:注釈によると、越方とは「禁呪を善くす」との意味。趙炳の名前は『抱朴子』に於いて道士の一人として言及されている。

*2:『水經注』によると、「呉寧渓は呉寧県より出で、烏傷を経る。之を烏傷渓と謂う」とある。現在の浙江省義烏市。

*3:やりたい志向性は一緒だから、互いの持てる能力をそれぞれ試そうじゃないか!という話。

*4:徐登が水の流れを止めると、水の供給を絶たれた樹が枯れる…はずが、趙炳が樹を枯れないように禁呪を使ったので枯れずに済んだ。で、それを視て二人がわいわい楽しく笑いましたとさ。めでたしめでたし…じゃねーって。水の流れを止められたら付近の住民はどうするんだよ(笑)

*5:両方とも「尊い」の意味。同義語を重ねての強調だろう。

*6:水を酒だと見なしたわけですな。私には無理。

*7:干し肉。

*8:禁呪と同義

*9:かしぐ。飯を炊くこと。

*10:炊いいた飯が芯まで火が通った、という意味だろう。

*11:超迷惑。

*12:章安県令

*13:注釈に曰く、「趙炳の故の祠は今の婺州永康縣の東に在り、俗に趙侯祠と呼を為し、今は蚊蚋至りて祠所に入れず。江南猶も趙侯の禁法以て疾を療するを伝うを云う。」

*14:蚊蚋。蚊のことで、蚋は「ぶよ」。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (6)

大夫曰:「往者,郡國諸侯各以其方物貢輸,往來煩雜,物多苦惡,或不償其費。故郡國置輸官以相給運,而便遠方之貢,故曰均輸。開委府於京師,以籠貨物。賤即買,貴則賣。是以縣官不失實,商賈無所貿利,故曰平準。平準則民不失職,均輸則民齊勞逸。故平準、均輸,所以平萬物而便百姓,非開利孔而為民罪梯者也。」

大夫曰く「往者*1、郡国諸侯は各其の放物*2を貢輸するを以てするに往来煩雑、物多くて苦悪*3し、或いは其の費を償わず。故に郡国に輸官を置き以て相運ぶを給け而して遠方の貢を便とし、故に曰く均輸という。京師に府を開き委ね*4、以て貨物を籠めん。賤せば則ち買い、貴たれば則ち売る。是れ以て縣官*5は実を失せず、商賈は利を貿むる*6所無く、故に平準という。平準たれば則ち民は失職せず、均輸たれば則ち民は斉しく労逸す。故に平準・均輸、万物を平らかにし而して百姓を便するを以てする所、利の孔を開き而して民の罪梯を為す者に非ざるなり。」

文学の士が商工業重視の政策が庶民の生活を困窮させる、と指弾したことに対する桑弘羊の反論。均輸制は遠方からの運搬の手間を官が担うことによってその労を軽減させ、平準制は首都に物品を集約して売買することを指すようである。均輸制は現代で例えると国営の運輸事業みたいなものだろうか。平準制は物品を一箇所に集約することで地方による価格差を無くすことが目的か。本当は『漢書』を読んで理解すべきだろうが(恐らく上奏文とかに詳細が載ってるのだろう)、ここだけで判断する限りはそんな感じ。とにかく、桑弘羊は今回の反論で「庶民の生活にとっても利益があり、そのような批判は当たらない」と。

*1:過ぎ去った昔の事柄。

*2:地方の産物。

*3:苦と悪は同義で、困難であることを強調している。

*4:委=積む、という意味。

*5:漢代に於いて、「縣官」は天子を指す。『史記索隱』や『資治通鑑』の胡三省注で指摘。

*6:求めると同義。

『後漢書』羊陟伝

羊陟字嗣祖,太山梁父人也。家世冠族。陟少清直有學行,舉孝廉,辟太尉李固府,舉高第,拜侍御史。會固被誅,陟以故吏禁錮歷年。復舉高第,再遷冀州刺史。奏案貪濁,所在肅然。又再遷虎賁中郎將、城門校尉,三遷尚書令。時太尉張顥、司徒樊陵、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並與宦豎相姻私,公行貨賂,並奏罷黜之,不納。以前太尉劉寵、司隸校尉許冰、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾清亮在公,薦舉升進。帝嘉之,拜陟河南尹。計日受奉,常食乾飯茹菜,禁制豪右,京師憚之。會黨事起,免官禁錮,卒於家。

まずは例の如く書き下し。諸注意もかくの如し。

 羊陟字を嗣祖、太山郡梁父県の人なり。家世冠族たり*1。羊陟は少くして清直にして学業有り。孝廉に挙げられ、太尉李固の府に辟せられ、高第に挙げられ、侍御史を拝す。会*2李固誅せられ、羊陟は故吏を以て歴年禁錮とす。復た高第に挙げられ、再遷して冀州刺史たり。奏して貪濁を案じ、在る所は粛然たり。又再遷して虎賁中郎将、城門校尉、三遷して尚書令たり。時の太尉張顥、司徒樊陵*3、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並びに宦豎と相姻私し*4、公に貨賂を行う。並びに奏して之を罷黜*5せんとするも、納めず。以前の太尉劉寵、司隷校尉許冰*6、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾は清亮にして公に在り、薦挙して昇進せしむ。帝之を嘉とし、羊陟は河南尹を拝す。日を計りて奉を受け*7、常に乾飯と茹菜*8を食し、豪右の制するを禁じ、京師之を憚る。会*9党事起こりて官を免ぜられて禁錮し*10、家に卒す。

というわけで、寝る前にお酒を飲みながらもう一つ訳してみた。これくらいの分量ならすぐできてお手軽である。

*1:代々豪族の家柄だった。県は違うが、同郡出身であることから、羊続の一族ではなかろうか。羊続も七世二千石の家柄である。

*2:たまたま

*3:錢大昕曰く「靈帝紀は樊陵を太尉と為して司徒に非ず」。ということだが、それだと張顥と被るじゃん…という話もあったりなかったり。時期的な問題だろうか。

*4:宦官勢力と一部士大夫の結託と読める。

*5:辞めさせて退ける、と言う意味。

*6:『後漢書集解』には以下の記述がある。【王先謙曰く、官本は亦た永と作る。『考証』曰く、永は毛本で冰と作り、監本は水と作る。今は宋本に従う。王先謙案ずるに、毛本並びに冰と作らず、何本に拠るか知らず。】ここは中華書局、そして中央研究院の漢籍電子文献が共に許冰と表記しているので今回はそれに従ったが、王先謙の見解に拠れば「許冰」という表記は根拠が無いとし、実際に『後漢書集解』における本文表記は「許永」となっている。

*7:給料(俸禄)を誤魔化さなかったということか?

*8:乾いたご飯と茹で野菜だけ。

*9:たまたま

*10:所謂「党錮の禁」だが、恐らく第一次の方か。

『後漢書』羊続伝

羊続字興祖,太山平陽人也。其先七世二千石卿校。祖父侵,安帝時司隷校尉。父儒,桓帝時為太常。

続以忠臣子孫拝郎中,去官後,辟大将軍竇武府。及武敗,坐党事,禁錮十余年,幽居守静。及党禁解,復辟太尉府,四遷為廬江太守。後揚州黄巾賊攻舒,焚焼城郭,続発県中男子二十以上,皆持兵勒陳,其小弱者,悉使負水潅火,会集数万人,併埶力戦,大破之,郡界平。後安風賊戴風等作乱,続復撃破之,斬首三千余級,生獲渠帥,其余党輩原為平民,賦与佃器,使就農業。

中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻没六県,拝続為南陽太守。当入郡界,乃羸服閒行,侍童子一人,観歴県邑,採問風謡,然後乃進。其令長貪絜,吏民良猾,悉逆知其状,郡内驚竦,莫不震懾。乃発兵与荊州刺史王敏共撃慈,斬之,獲首五千余級。属県余賊併詣続降,続為上言,宥其枝附。賊既清平,乃班宣政令,候民病利,百姓歓服。時権豪之家多尚奢麗,続深疾之,常敝衣薄食,車馬羸敗。府丞嘗献其生魚,続受而懸於庭;丞後又進之,続乃出前所懸者以杜其意。続妻後与子祕倶往郡舎,続閉門不内,妻自将祕行,其資蔵唯有布衾、敝袛裯,塩、麦数斛而已,顧勑祕曰:「吾自奉若此,何以資爾母乎?」使与母倶帰。

六年,霊帝欲以続為太尉。時拝三公者,皆輸東園礼銭千万,令中使督之,名為「左騶」。其所之往,輒迎致礼敬,厚加贈賂。続乃坐使人於単席,挙縕袍以示之,曰:「臣之所資,唯斯而已。」左騶白之,帝不悦,以此不登公位。而徴為太常,未及行,会病卒,時年四十八。遺言薄斂,不受賵遺。旧典,二千石卒官賻百万,府丞焦倹遵続先意,一 無所受。詔書襃美,勑太山太守以府賻銭賜続家云。

まず、とりあえずざっと書き下してみよう。必要に応じて勝手に付け加えているのは了解いただきたい。というより正確ではないので(正確になるよう努力はしている)、間違いがあればコメント等でご指摘願いたい。

 羊続は字を興祖、太山郡平陽県の人なり。その先七世は二千石の卿校たり。祖父の羊侵、安帝の時に司隷校尉たり。父の羊儒、桓帝の時に太常と為る。
 羊続は忠臣の子孫を以て郎中を拝し、官を去りて後、大将軍竇武の府に辟せらる。竇武敗れるに及び、党事に坐して禁錮十余年、幽居して静を守る。党の禁を解かるるに及び、復た太尉府に辟せられ、四遷して廬江太守と為る。後に揚州黄巾賊が舒を攻めるや、(黄巾賊は)城郭を焚焼す。羊続は県中の男子二十(歳)以上を発し、皆兵を持し陣を勒し、其の小弱は悉く水を負って火に潅がしむ。会集すること数万人、埶を併せて力戦し、之を大破し、郡界平らぐ。後に安風賊の戴風等が乱を作し、羊賊は復た之を撃破し、斬首すること三千余級、生かして渠帥を獲らえ、其の余党の輩は原して*1平民と為し、佃器を賦与して農業に就かしむ。
 中平三年、江夏兵の趙慈が反叛し、南陽太守秦頡を殺し、攻めて六県を没せしめ、羊続は拝して南陽太守と為る。当に郡界に入るや、乃ち羸服して*2閒行し*3、童子一人を侍らせ、県邑を観歴す、風謡を採問し*4、然る後に乃ち進む。其の令長*5は貪なるも絜なるも、吏民は良なるも猾なるも、悉くその状を逆知し*6、郡内は驚き竦み、懾れ震わざるは莫し。乃ち兵を発して荊州刺史王敏と共に趙慈を撃して之を斬り、首を獲ること五千余級。属県の余賊併せて羊続に詣で降る*7。羊続は為に上言し、其の枝附を宥む。賊既に清平たり、乃ち班して政令を宣し、民の病利*8を候い、百姓歓服す。時に権豪の家は多く奢麗を尚び、羊続は深く之を疾とし、常に衣は敝して*9食は薄く、車馬は贏敗す*10。府の丞嘗て其の生魚を献ずるに、羊続は受けるも而して庭に懸けたり。丞は後に又之を進めたれば、羊続乃ち出で懸ける所の者を前め以てその意を杜ざす*11。羊続の妻は後に子の羊秘と倶に郡舎に往かんとするも、羊続は門を閉じて内れず*12、妻自ら羊秘を将いて行かんとす*13。其の資蔵は唯布衾有るのみにして、袛裯*14は敝し、塩、麦は数斛のみ。(羊続は)羊秘を顧みて勅して曰く、「吾自ら奉ずること此の若く、何ぞ以て爾の母に資するか?*15」母と倶に帰せしむ。
 中平六年、靈帝は羊続を以て太尉と為さんと欲す*16。時に三公を拝するは、皆な東園に礼銭千万を輸し、中使に之を督せしめ、名を「左騶」と為す*17。其れ之の往く所、輒ち迎えて礼敬を致し、厚く賄賂を加う。羊続乃ち単席に人を使わして坐せしめ、縕袍を挙げて以て之を示して曰く、「臣の資する所、唯其れのみ*18 *19。」左騶之を白さば*20、帝悦ばず*21、此を以て公位に登らず*22。而して徴して太常に為さんとするも*23、未だ及び行かずして、会*24病にて卒し、時に年四十八。薄く斂して、賵遺を受けざるを遺言す。旧典、二千石にて卒官せば百万を賻るに、府丞の焦倹*25羊続の先意に遵い、一つも受けるところ無し。詔書して美しきを褒め、太山太守に敕して府の賻銭を以て羊続の家に賜うを云う*26

その時々の個人的感想や解釈は上の書き下し文中の注釈に入れたので、参照願います。羊続は見ての通り蓄財に励まなかったので全く資産が無く、売官横行当時の靈帝期ではかなり不利に働いています。ただ、反乱鎮圧の実力は買われていたようで、廬江太守と南陽太守の鎮撫の実績がそれを物語っている。流石は羊祜の祖父。ちなみに羊祜の父親は羊衜、父の死後にお世話になった叔父は羊耽の為、この列伝で登場する羊秘は傍系か何かなのかも知れない。

*2012/02/21 09:50 – mujin氏から幾つかご指摘を受けて修正しました。ありがとうございます。

*1:免じて、の意味。

*2:ボロボロの服を着て

*3:間道を通り

*4:風謡を聞いて回ったということか?

*5:県令と県長の意味だろう。

*6:mujin氏の指摘:事前に察知との意味

*7:要は生き残った趙慈の一味は続々と羊続等に降伏したということだと思う。

*8:病=損、利=益なので損益の意味。

*9:着る物がボロボロ

*10:とにかくボロボロ

*11:王文台は『北堂書鈔』から次のエピソードを引用している。羊続は淡水魚が大好きだったので、府丞の焦倹は三月に鯉魚一頭を献上しようと望む。しかし、献上された鯉魚を羊続は食べずに庭に懸け、翌年に再び鯉魚を献上してきた焦倹へ干された鯉魚を見せて「私は鯉魚を食べないよ」という意思を示したのだという。これは私見だが、恐らく焦倹は気を利かせて上司の好きな食べ物を献上しようとしたのだろうが、それを受け取れば部下へ暗に今後もそういった行為を要求することにもなりかねない。質素倹約を掲げていた羊続としては、トップ自らその姿勢を顕示する為に大好きな淡水魚を絶ったのだろう。

*12:mujin氏の指摘:内=入

*13:羊続が中に入れようとしないので、妻が子供を引き連れて無理矢理部屋の中に突入した、という事だろうか(笑)

*14:短衣のこと。

*15:私が宮仕えするのはこういった態度であるのに、どうしてお前の母に分け与えるようなものがあるだろうか、という意味だろう。つまりこの時、羊続の妻が何か資産になる物を取りに来たのだろう。で、何もなかった…と。

*16:袁山松『漢書』には、時の太尉であった劉虞が羊続に地位を譲渡しようとしたのだという。

*17:要は売官を管理する為の役職だろう。お金の受け渡しが確実に行われたか確認する為の。

*18:実家に住む妻にすら分け与える物がないのだから、当然送る賄賂なんて持っていないのである。

*19:尚、このエピソードから巷では「天下清苦,羊興祖。」と謡われたという。出典は范泰『古今善言』。

*20:普通なら宴会場に連れて行って大いにもてなしを受ける役得なのに、粗末な席に通されて何もないと言われたら、そりゃあ心証が悪いに決まってますよね。

*21:売官が目的なので、お金が貰えなかったら大いに不都合なのです。

*22:劉虞の推薦は通らなかった、ということになる。

*23:太常なら銭は要らないのか、それとも羊続の評判を買ってのことなのかはわからない。たぶん後者。

*24:「たまたま」と読んでちょうどそのとき、と言う意味。

*25:鯉魚を羊続に贈るも受け取って貰えずにションボリしていた(かどうかは定かではない)あの人である。

*26:ということは、この二千石官(要は太守)が死去した時の百万銭の受取手は、本来その郡府の庫ということになる。家族が対象ではないらしい。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (4)

文學曰:「古者,貴以徳而賤用兵。孔子曰:『遠人不服,則修文德以來之。既來之,則安之。』今廢道徳而任兵革,興師而伐之,屯戍而備之,暴兵露師,以支久長,轉輸糧食無已,使邊境之士饑寒於外,百姓勞苦於内。立鹽、鐵,始張利官以給之,非長策也。故以罷之為便也。」

大夫曰:「古之立國家者,開本末之途,通有無之用,市朝以一其求,致士民,聚萬貨,農商工師各得所欲,交易而退。易曰:『通其變,使民不倦。』故工不出,則農用乏;商不出,則寶貨絕。農用乏,則穀不殖;寶貨絕,則財用匱。故鹽、鐵、均輸,所以通委財而調緩急。罷之,不便也。」

とりあえず文学の発言をざっと書き下せば、

「古の人は、徳を以て貴く而して兵を用いるを賤しきとす。孔子曰く『遠人服さざれば、則ち文徳を修め以て之を来たらしむ。既に来たれば、則ち之を安ず。』今道徳廃れて而して兵革に任せ、師を興して而して之を伐たんとし、戌に屯して而して之に備え、兵暴し師露る。久長に支するを以てし、糧食を転輸するも已に無く、辺境の士外に饑寒し、百姓内に労苦せしむ。塩、鉄立ち、始めは官の利張りて之を給するを以てするも、長策に非ざるなり。故に之を罷して便と為すなり。」

となり、御史大夫の桑弘羊の発言は、

「古の国家を立つるは、本末の途を開き、有無の用に通じ、市朝は一に其れ求むるを以てし、士民を致し、万貨を衆め、農商工師は各欲するところを得、交易して而して退す。易に曰く『其の変に通じれば、民倦まざらしむ。』故に工出でざれば則ち農用乏しく、商出でざれば則ち穀殖えず、賽貨絶えれば則ち財用匱し。故に塩、鉄、均輸し、財を通じ委ね而して緩急を調える所以。之を罷せば、便せざるなり。」

となるだろうか(誤りの箇所はご指摘を請う)。それぞれの言い分を簡潔に言い表すと、文学は「軍備に資金を投じて遠征を繰り返せば、遠征先の兵士は寒さに凍え饑えてしまうし、内地の百姓は窮乏状態になる。塩鉄の制度は最初こそ利するだろうが、長期的に見れば得策ではない」ということ。一方の桑弘羊は「商工業を盛んにすることで国家は栄える」ということだろうか。塩鉄官や均輸制度は交易を生み、工業が農具の供給、商業が穀物の流通に寄与すると。

つまり、ここは民力休養・重農主義を唱える文学側が桑弘羊の政策は国力窮乏を招くと非難する一方、軍備増強・重商主義を掲げる桑弘羊は依然として塩鉄官、均輸制度の有効性を訴えている場面である。

渡邉将智「政治空間よりみた後漢の外戚輔政―後漢皇帝支配体制の限界をめぐって」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊』56, 59-75, 2010)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018797612

この論文の主題は後漢時代の和帝期以後、皇帝権力の弱体化を「空間」の概念を用いて論じることにある。渡邉氏は後漢時代において皇帝の補政を二段階で区分する。

  1. 光武帝~章帝期の内戚補政の時代
  2. 和帝期以後の外戚・宦官補政の時代

特に補政の仕組みを考慮する上で注目に値すべきは章帝と和帝であるとする。章帝は侍中や黄門侍郎を外戚竇氏に任じて皇帝への禁中での口頭進言を許し、さらに遺言で竇氏一族を補政の任に就ける。外戚を補政の任に就けることは、光武帝以後行われてこなかったことであった。章帝の後を受けた和帝は、竇氏一派が和帝弑殺を画策したことから、侍中の禁中の出入りを原則禁止にして中常侍にのみ禁中での口頭進言を許すことになった。しかし、結局は外戚勢力は宦官と結託することで禁中への影響力を維持したため、外戚・宦官主導の補政が続いて皇帝権力は弱体化することになる。

これが本論文の主なストーリーである。政治空間での章帝期と和帝期の大きな違いは、侍中が禁中出入りを許されているかどうかの違いである。しかし側近政治そのものを克服できなかったため、和帝期以後も中常侍(宦官)を通じて外戚も影響力を行使できた。私がイマイチよく分かっていないのは、外戚が中常侍との結託を欲するのは分かるが、中常侍(宦官)側が外戚の力を欲したのは何故だろうか、ということである。論文では『後漢書』何進伝における張譲の発言を以てその論証としているが、何故宦官が外戚の力を欲しているかを論じ切れていないように思う(或いは論じるまでもなく自明だとか?)。

あまり『後漢書』を読み切れていないので不勉強なだけかも知れないが、その辺が少し気になった次第である。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (1)

前漢の昭帝期の専売制に関する議論を纏めた『鹽鐵論』を題材とします。現在進めている『白虎通』と並行して取り上げていこうと思います。基本的には今の『白虎通』と同じ感じで進めていきます。

惟始元六年,有詔書使丞相、御史與所舉賢良、文學語。問民間所疾苦。
文學對曰:「竊聞治人之道,防淫佚之原,廣道德之端,抑末利而開仁義,毋示以利,然後教化可興,而風俗可移也。今郡國有鹽、鐵、酒榷,均輸,與民爭利。散敦厚之樸,成貪鄙之化。是以百姓就本者寡,趨末者衆。夫文繁則質衰,末盛則質虧。末修則民淫,本修則民愨。民愨則財用足,民侈則饑寒生。願罷鹽、鐵、酒榷、均輸,所以進本退末,廣利農業,便也。」

昭帝期の始元六年(紀元前61年)、丞相(田千秋*1)及び御史大夫(桑弘羊)は賢良、文学の士と共に専売制に関する議論を行うことになる。

まず、文学の士が問題を提起する。塩、鉄、酒に関する専売と均輸制が施行されている影響で、民衆が奢侈に走って本業たる農業に精を出さない。その為に風俗は衰え国の収入も減っている。それ故、今の均輸制を廃止して農業に精を出させるような方策を採るべき、とある。

この専売や均輸を実施したのは御史大夫である桑弘羊その人。武帝の遠征事業で掛かる費用を賄うために施行した方策だが、この方策が却って悪影響を与えているのだ、とする批判である。

*1:車千秋とも称する。

班固『白虎通』巻一 爵 (7)

爵人于朝者,示不私人以官,與衆共之義也。封諸侯于廟者,示不自專也。明法度皆祖之制也,舉事必告焉。《王制》曰:「爵人于朝,與衆共之焉。」《詩》云:「王命卿士,南仲太祖。」《禮祭統》曰:「古者明君,爵有德必于太祖。君降立于阼階南,南面向,所命北面,央由君右執策命之。」

「朝で人に爵位を授けるのは、私人を役人として任用していないことを示す」「廟で諸侯を封じるのは、恣意的な運用でないことを示す」という。朝は天子が政務を執る場所、私人は召使いとか家臣の意味。また、本文中に出てくる「阼階(そかい)」がよくわからないので調べたところ、「主人が登る東側の階段(角川新字源 改訂版)」の意味らしく、古来は主人が東側、客が西側の階段を使用したとのこと。

また、『毛詩』大雅・常武の「王命卿士,南仲大祖。」の意味について、ふくらさんが運営する中国兵法では以下のように説明している。

はじめに、周王は王室の軍隊を任命して統帥する権限をがっちり掌握していました。『詩経』「大雅・常武」に「王命郷士、南仲太祖、大師皇父、整我六師、以修我戎」とあります。これは周王が太祖の霊廟において「西六師」の将軍を任命する儀式を行ったことを言っています。軍隊のなかの各種の武官も、おおむね周王によって任命されました。
(中国の兵制―1.夏・殷・周の兵制「第三節 西周の兵制」)

また、陳立は注釈の中で廬文弨『今本四十四篇闕文』を引用する。

廬云:「衆當據本書作士,太祖本作太廟。自專,自一作敢。」

以上のことを考慮すると、ふくらさんの解釈するとおり、この引用部分は将軍の任命が太祖の霊廟に於いて行われたことを指し示すものなのだろう。人に爵位を授けたり、諸侯を封じたり、将軍を任命するという行為は、儀式化することでその重要さ、神聖さを印象づけていたのであろう。人事権の行使は今も昔も大変なのである。

班固『白虎通』巻一 爵 (5)

婦人無爵何?陰卑無外事,是以有三從之義:未嫁從父,既嫁從夫,夫死從子。故夫尊于朝,妻榮于室,隨夫之行,故《禮郊特牲》曰:「婦人無爵,坐以夫之齒。」《禮》曰:「生無爵,死無謚。」《春秋》録夫人皆有謚,夫人何以知非爵也?《論語》曰:「邦君之妻,君稱之曰夫人,國人稱之曰君夫人。」即令是爵,君稱之與國人稱之不當異也。

婦人に爵がない、ということについて論述している段落。『列女傳』にはかの有名な「未だ嫁がずは父に従い、既に嫁げば夫に従い、夫が死せば子に従え」の文句があり、『禮記』には「婦人に爵無く、坐して夫の歯を以てす」「生きて爵無く、死して謚無し」とある。とにかく女性、特に嫁いだ夫人は夫の陰となるべきことが説かれている。

しかし、一方で『春秋』には婦人に爵がある記録が残っている。これを受けて『白虎通疏証』の著者である陳立は注釈で

此據夫人有謚,以難婦人無爵也。(此れ夫人謚を有するに據りて、以て婦人の爵無きを難ずる也。)

と述べている。正直、これだけでは何と解釈して良いのか完全には掴みきれないが、婦人には爵がないんだという考え方は必ずしも当てはまりませんよ、ということなのかも知れない。*1 *2

*1:その後、Twitter上でgoushu氏から「陳立の注は文末につけられているのでわかりにくいけど、「《春秋》録夫人皆有謚,夫人何以知非爵也?」に対する注釈っぽい。『白虎通』は「春秋によると夫人に謚があるんだから、(爵があってもおかしくない、というか)『「夫人』っていうのが爵の名前じゃね?」という論難を仮設して、仮設した論難を論破することによって婦人には爵が無いという説を補強するというレトリックを使っている。ちなみに『夫人』が爵じゃない根拠はその後の論語の引用。論語に邦君の妻は「夫人」と呼ばれたり「君夫人」と呼ばれたり呼称が変わる。」というご指摘をいただいた。多謝!ご指摘の相当箇所はこちら→

*2:更に追記。先のご指摘を踏まえれば、婦人に爵は無いのですよ、ということになる。