崔寔『政論』

 司馬光『資治通鑑』巻五十八の漢紀四十五に掲載されている崔寔の『政論』。この当時(元嘉元年)は梁冀が権勢をほしいままにし、一方で京師で旱魃や地震が発生したり、匈奴や武陵蛮が反乱を起こすなど内憂外患の様相を呈しておりました。その際に以下のような文章を著して当時の世相を批判しています。尚、同様の文章は范曄『後漢書』崔寔伝、袁宏『後漢紀』孝皇桓帝紀上にも掲載されておりますが、いずれも引用内容は微妙に異なります。分量からして『後漢書』が正しいのかもしれませんが、その辺りは厳密な検証をしていないので何とも言えません。

 凡天下所以不治者,常由人主承平日久,俗漸敝而不悟,政浸衰而不改,習亂安危,怢不自睹。或荒耽耆欲,不恤萬機;或耳蔽箴誨,厭偽忽真;或猶豫歧路,莫適所以;或見信之佐,括囊守祿;或疏遠之臣,言以賤廢。是以王綱縱弛於上,智士郁伊于下。悲夫!自漢興以來,三百五十餘歲矣,政令垢玩,上下怠懈,百姓囂然,鹹復思中興之救矣!且濟時拯世之術,在於補衣定決壞,枝拄邪傾,隨形裁割,要措斯世於安寧之域而已。故聖人執權,遭時定制,步驟之差,各有雲設,不強人以不能,背急切而慕所聞也。蓋孔子對葉公以來遠,哀公以臨人,景公以節禮,非其不同,所急異務也。俗人拘文牽占,不達權制,奇偉所聞,簡忽所見,烏可與論國家之大事哉!故言事者雖合聖德,輒見掎奪。何者?其頑士暗於時權,安習所見,不知樂成,況可慮始,苟雲率由舊章而已。其達者或矜名妒能,恥策非己,舞筆奮辭以破其義。寡不勝眾,遂見擯棄,雖稷、契復存,猶將困焉。斯賢智之論所以常憤郁而不伸者也。
 凡為天下者,自非上德,嚴之則治,寛之則亂。何以明其然也?近孝宣皇帝明於君人之道,審於為政之理,故嚴刑峻法,破奸軌之膽,海內清肅,天下密如,逄計見效,優於孝文。及元帝即位,多行寬政,卒以墮損,威權始奪,遂為漢室基禍之主。政道得失,於斯可鑒。昔孔子作《春秋》,褒齊桓,懿晉文,歎管仲之功,夫豈不美文、武之道哉?誠達權救敝之理也。故聖人能與世推移,而俗士苦不知變,以為結繩之約,可復治亂秦之緒;干戚之舞,足以解平城之圍。夫熊經鳥伸,雖延歷之術,非傷寒之理;呼吸吐納,雖度紀之道,非續骨之膏。蓋為國之法,有似治身,平則致養,疾則攻焉。夫刑罰者,治亂之藥石也;德教者,興平之粱肉也。夫以德教除殘,是以粱肉治疾也;以刑罰治平,是以藥石供養也。方今承百王之敝,值厄運之會,自數世以來,政多恩貸,馭委其轡。馬駘其銜,四牡橫奔,皇路險傾,方將拑勒鞬輈以救之,豈暇鳴和鑾,請節奏哉!昔文帝雖除肉刑,當斬右趾者棄市,笞者往往至死。是文帝以嚴致平,非以寛致平也。

 詳細な解釈は手間がかかるので避けますが、話の流れは(1)現在の政治は綱紀が弛緩しているという旨を批判、(2)政治は「厳」を以て臨むべきであって「寛」であっては政治が乱れることを述べています。そして文帝の法に厳たる治世を手本とする一方、元帝の寛を基調とする政治が漢室の災いになっていると指摘しています。つまり崔寔は前漢の事例を引用することで梁冀批判を展開したわけです。

 ところが批判された当の梁冀は崔寔を自らの府に辟召します。最初は辞退しますが後に議郎を拝して大将軍司馬に遷り、辺韶、延篤らと『東觀漢記』の編纂に関与します。五原太守に転出した後、一時は梁冀が誅せられた後に門生故吏ということで数年の禁固を余儀なくされますが、基本的に辺縁部の太守を歴任します。建寧年間に死去すると家には殯を斂するだけの余力も無かったようですが、楊賜・袁逢・段熲らによって準備がなされ、袁隗によって碑が建てられます。楊賜は弘農楊氏、袁逢・袁隗は汝南袁氏で共に四世三公の家系、段熲は「涼州三明」とも謳われた勲功赫々たる将軍。崔寔の築き上げた人脈が偲ばれますね。