『後漢書』龐公伝

龐公者,南郡襄陽人也。居峴山之南,未嘗入城府。夫妻相敬如賓。荊州刺史劉表數延請,不能屈,乃就候之。謂曰:「夫保全一身,孰若保全天下乎?」龐公笑曰:「鴻鵠巣於高林之上,暮而得所栖;黿鼉穴於深淵之下,夕而得所宿。夫趣舍行止,亦人之巣穴也。且各得其栖宿而已,天下非所保也。」因釋耕於壟上,而妻子耘於前。表指而問曰:「先生苦居畎畝而不肯官祿,後世何以遺子孫乎?」龐公曰:「世人皆遺之以危,今獨遺之以安,雖所遺不同,未為無所遺也。」表歎息而去。後遂攜其妻子登鹿門山,因采藥不反。

『後漢書』逸民列伝に記載されている龐徳公の伝記。水鏡先生こと司馬徽、徐庶、龐統、諸葛亮等が絡むという意味では物語上の重要人物。ただ歴史的に見て重要かどうかと言うと、当時の世相を表現するエピソードの1つでしか無い。以下、書き下し文。

 龐公なる者は南郡襄陽の人なり。峴山の南に居り、未だ嘗て城府に入らず。夫妻相敬せられること賓の如し。荊州刺史劉表は数*1延かんとして請う*2も、屈せしむること能わず*3、乃ち之の候に就く*4。謂いて曰く
 「夫れ一身を保全するは、孰れか天下を保全すべきか?」
龐公笑いて曰く
 「鴻鵠は高林の上に巣くい、暮而して栖する所を得る。黿鼉*5は深淵の下に穴し、夕而して宿る所を得る。夫れ趣舍*6し行きて止む、亦た人の巣穴なり。且つ*7各其の栖宿を得るのみ。天下の保つ所に非ず。」
釈に因りて壟上に耕し、而して妻子は前に耘す。劉表指し而して問うて曰く
 「先生は畎畝*8に苦居し而して官禄を肯じえず、後世何を以て子孫に遺すか?」
龐公曰く
 「世人皆之を遺すを以て危とし、今独り之を遺すを以て安とす。遺す所同じからざると雖も、未だ遺す所無きを為さざるなり。」
劉表嘆息し而して去る*9。後に遂に其の妻子を携え鹿門山*10に登り、因りて薬を采して反せず。

とりあえずこの伝記を見る限りでは世俗と関わりを絶って動いているように見えるが、実際は司馬徽が龐公に兄事しながら徐庶や諸葛亮などの門下を育成し、龐公の息子は諸葛亮の姉を娶って魏に仕え、龐公自ら一推しの族子龐統を世に送るため司馬徽に評価させる等々。単に面倒毎が嫌で隠居していただけで、世間との関わりを完全に絶とうとはしていないのではないだろうか。

又はただ単に「劉表嫌われすぎワロスw」という話だけなのかも知れない。

*1:しばしば

*2:自陣営に引き入れようと要請しようとしたが、位の意味かな?

*3:登用失敗。

*4:機会を見つけて会おうとしたのか。なんとも執念深い劉表である。

*5:げんだ、と読む。大型のカメとワニの類らしい。

*6:進むことと止まること、又は取ることと捨てることという意味。『荘子』外篇・秋水第十七の「辞受趣舍」の単語が出典か。

*7:どういう用法だろう?わからない。

*8:げんぼう。田舎とか民間の意味。

*9:諦めたようだ。

*10:旧名を蘇嶺山。『襄陽記』によると、建武年間中に二つの石鹿を刻した襄陽侯習郁の神祠が建てられ、それが神道口を挟んだ格好になっているので俗に鹿門廟と称されるようになり、最終的にはその呼び名がそのまま山の名前になったという。

『後漢書』徐登伝

徐登者,閩中人也。本女子,化為丈夫。善為巫術。又趙炳,字公阿,東陽人,能為越方。時遭兵亂,疾疫大起,二人遇於烏傷溪水之上,遂結言約,共以其術療病。各相謂曰:「今既同志,且可各試所能。」登乃禁溪水。水為不流,炳復次禁枯樹,樹即生荑,二人相視而笑,共行其道焉。

登年長,炳師事之。貴尚清儉,禮神唯以東流水為酌,削桑皮為脯。但行禁架,所療皆除。

後登物故,炳東入章安,百姓未之知也。炳乃故升茅屋,梧鼎而爨,主人見之驚懅,炳笑不應,既而爨孰,屋無損異。又嘗臨水求度,船人不和之,炳乃張蓋坐其中,長嘯呼風,亂流而濟。於是百姓神服,從者如歸。章安令惡其惑衆,収殺之。人為立祠 室於永康,至今蚊蚋不能入也。

 徐登なる者は閩中の人なり。本は女子たるに、化して丈夫と為る。善く巫術を為す。また趙炳、字は公阿、東陽の人、能く越方*1を為す。時に兵乱に遭い、疾疫大いに起こり、二人は烏傷渓水*2の上に遇い、遂に結して言約し、共に其の術を以て病を療す。各相謂いて曰く「今既に志を同じくし、且に能とする所を各試するを可とせんとす*3。」徐登は乃ち渓水を禁ず。水は流れざるを為し、趙炳は復た次に樹の枯れるを禁じ、樹は乃ち生&#x8351す。二人相視て而して笑い、共にその道を行く*4
 徐登は年長じ、趙炳は之に師事す。清倹を貴尚*5し、神に礼して唯東に流るる水を以て酌を為し*6、桑の皮を削りて脯*7と為す。但し禁架*8を行い、療する所皆除す。
 後に徐登物故し、趙炳は東して章安に入るも、百姓未だ之を知らざるなり。趙炳乃ち故の茅屋に升り、梧の鼎に而して爨ぐ*9。主人之を見て驚懅するも、趙炳は笑いて応ぜず。既に而して爨孰し*10、屋は損異無し。又嘗て水に臨みて度を求め、船人は之を和せず、趙炳乃ち蓋に張り其の中に坐し、長く嘯きて風を呼び、流れ乱れて而して済る*11。是に於いて百姓神服し、従う者は帰するが如し。章安令*12は其の衆を惑わすを悪み、収めて之を殺す。人は祠を立てるを為し、永康*13に室すも、今は蚊蚋*14至り入ること能わず。

女性から男性にコンバートしたという異例な経歴の持ち主の徐登、及び禁呪を自在に操る道士の趙炳の列伝。互いに習得した能力を生かし、会稽郡烏傷県の付近で治療を施していたという。食事は水及び桑の皮というストイックさ。まぁそんなに出世欲が無かった(道士では出世できませんし…)からか、徐登が死んでからは沿岸部の会稽郡章安県に移住して質素な暮らしをしていたという。が、『抱朴子』に載るような能力の持ち主が注目されないわけは無く、奇跡を起こして住民を心服させるや、県令の嫉妬を買って殺されてしまいました…という話。何故か趙炳の祠は烏傷県と章安県の中間辺りに位置する永康の地にあったらしいが、蚊蚋が沢山いて中には入れないという。何という不気味な状態。誰か掃除してやれよ、とか思ったり。何なんでしょうね。

*1:注釈によると、越方とは「禁呪を善くす」との意味。趙炳の名前は『抱朴子』に於いて道士の一人として言及されている。

*2:『水經注』によると、「呉寧渓は呉寧県より出で、烏傷を経る。之を烏傷渓と謂う」とある。現在の浙江省義烏市。

*3:やりたい志向性は一緒だから、互いの持てる能力をそれぞれ試そうじゃないか!という話。

*4:徐登が水の流れを止めると、水の供給を絶たれた樹が枯れる…はずが、趙炳が樹を枯れないように禁呪を使ったので枯れずに済んだ。で、それを視て二人がわいわい楽しく笑いましたとさ。めでたしめでたし…じゃねーって。水の流れを止められたら付近の住民はどうするんだよ(笑)

*5:両方とも「尊い」の意味。同義語を重ねての強調だろう。

*6:水を酒だと見なしたわけですな。私には無理。

*7:干し肉。

*8:禁呪と同義

*9:かしぐ。飯を炊くこと。

*10:炊いいた飯が芯まで火が通った、という意味だろう。

*11:超迷惑。

*12:章安県令

*13:注釈に曰く、「趙炳の故の祠は今の婺州永康縣の東に在り、俗に趙侯祠と呼を為し、今は蚊蚋至りて祠所に入れず。江南猶も趙侯の禁法以て疾を療するを伝うを云う。」

*14:蚊蚋。蚊のことで、蚋は「ぶよ」。

『後漢書』羊陟伝

羊陟字嗣祖,太山梁父人也。家世冠族。陟少清直有學行,舉孝廉,辟太尉李固府,舉高第,拜侍御史。會固被誅,陟以故吏禁錮歷年。復舉高第,再遷冀州刺史。奏案貪濁,所在肅然。又再遷虎賁中郎將、城門校尉,三遷尚書令。時太尉張顥、司徒樊陵、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並與宦豎相姻私,公行貨賂,並奏罷黜之,不納。以前太尉劉寵、司隸校尉許冰、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾清亮在公,薦舉升進。帝嘉之,拜陟河南尹。計日受奉,常食乾飯茹菜,禁制豪右,京師憚之。會黨事起,免官禁錮,卒於家。

まずは例の如く書き下し。諸注意もかくの如し。

 羊陟字を嗣祖、太山郡梁父県の人なり。家世冠族たり*1。羊陟は少くして清直にして学業有り。孝廉に挙げられ、太尉李固の府に辟せられ、高第に挙げられ、侍御史を拝す。会*2李固誅せられ、羊陟は故吏を以て歴年禁錮とす。復た高第に挙げられ、再遷して冀州刺史たり。奏して貪濁を案じ、在る所は粛然たり。又再遷して虎賁中郎将、城門校尉、三遷して尚書令たり。時の太尉張顥、司徒樊陵*3、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並びに宦豎と相姻私し*4、公に貨賂を行う。並びに奏して之を罷黜*5せんとするも、納めず。以前の太尉劉寵、司隷校尉許冰*6、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾は清亮にして公に在り、薦挙して昇進せしむ。帝之を嘉とし、羊陟は河南尹を拝す。日を計りて奉を受け*7、常に乾飯と茹菜*8を食し、豪右の制するを禁じ、京師之を憚る。会*9党事起こりて官を免ぜられて禁錮し*10、家に卒す。

というわけで、寝る前にお酒を飲みながらもう一つ訳してみた。これくらいの分量ならすぐできてお手軽である。

*1:代々豪族の家柄だった。県は違うが、同郡出身であることから、羊続の一族ではなかろうか。羊続も七世二千石の家柄である。

*2:たまたま

*3:錢大昕曰く「靈帝紀は樊陵を太尉と為して司徒に非ず」。ということだが、それだと張顥と被るじゃん…という話もあったりなかったり。時期的な問題だろうか。

*4:宦官勢力と一部士大夫の結託と読める。

*5:辞めさせて退ける、と言う意味。

*6:『後漢書集解』には以下の記述がある。【王先謙曰く、官本は亦た永と作る。『考証』曰く、永は毛本で冰と作り、監本は水と作る。今は宋本に従う。王先謙案ずるに、毛本並びに冰と作らず、何本に拠るか知らず。】ここは中華書局、そして中央研究院の漢籍電子文献が共に許冰と表記しているので今回はそれに従ったが、王先謙の見解に拠れば「許冰」という表記は根拠が無いとし、実際に『後漢書集解』における本文表記は「許永」となっている。

*7:給料(俸禄)を誤魔化さなかったということか?

*8:乾いたご飯と茹で野菜だけ。

*9:たまたま

*10:所謂「党錮の禁」だが、恐らく第一次の方か。

『後漢書』羊続伝

羊続字興祖,太山平陽人也。其先七世二千石卿校。祖父侵,安帝時司隷校尉。父儒,桓帝時為太常。

続以忠臣子孫拝郎中,去官後,辟大将軍竇武府。及武敗,坐党事,禁錮十余年,幽居守静。及党禁解,復辟太尉府,四遷為廬江太守。後揚州黄巾賊攻舒,焚焼城郭,続発県中男子二十以上,皆持兵勒陳,其小弱者,悉使負水潅火,会集数万人,併埶力戦,大破之,郡界平。後安風賊戴風等作乱,続復撃破之,斬首三千余級,生獲渠帥,其余党輩原為平民,賦与佃器,使就農業。

中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻没六県,拝続為南陽太守。当入郡界,乃羸服閒行,侍童子一人,観歴県邑,採問風謡,然後乃進。其令長貪絜,吏民良猾,悉逆知其状,郡内驚竦,莫不震懾。乃発兵与荊州刺史王敏共撃慈,斬之,獲首五千余級。属県余賊併詣続降,続為上言,宥其枝附。賊既清平,乃班宣政令,候民病利,百姓歓服。時権豪之家多尚奢麗,続深疾之,常敝衣薄食,車馬羸敗。府丞嘗献其生魚,続受而懸於庭;丞後又進之,続乃出前所懸者以杜其意。続妻後与子祕倶往郡舎,続閉門不内,妻自将祕行,其資蔵唯有布衾、敝袛裯,塩、麦数斛而已,顧勑祕曰:「吾自奉若此,何以資爾母乎?」使与母倶帰。

六年,霊帝欲以続為太尉。時拝三公者,皆輸東園礼銭千万,令中使督之,名為「左騶」。其所之往,輒迎致礼敬,厚加贈賂。続乃坐使人於単席,挙縕袍以示之,曰:「臣之所資,唯斯而已。」左騶白之,帝不悦,以此不登公位。而徴為太常,未及行,会病卒,時年四十八。遺言薄斂,不受賵遺。旧典,二千石卒官賻百万,府丞焦倹遵続先意,一 無所受。詔書襃美,勑太山太守以府賻銭賜続家云。

まず、とりあえずざっと書き下してみよう。必要に応じて勝手に付け加えているのは了解いただきたい。というより正確ではないので(正確になるよう努力はしている)、間違いがあればコメント等でご指摘願いたい。

 羊続は字を興祖、太山郡平陽県の人なり。その先七世は二千石の卿校たり。祖父の羊侵、安帝の時に司隷校尉たり。父の羊儒、桓帝の時に太常と為る。
 羊続は忠臣の子孫を以て郎中を拝し、官を去りて後、大将軍竇武の府に辟せらる。竇武敗れるに及び、党事に坐して禁錮十余年、幽居して静を守る。党の禁を解かるるに及び、復た太尉府に辟せられ、四遷して廬江太守と為る。後に揚州黄巾賊が舒を攻めるや、(黄巾賊は)城郭を焚焼す。羊続は県中の男子二十(歳)以上を発し、皆兵を持し陣を勒し、其の小弱は悉く水を負って火に潅がしむ。会集すること数万人、埶を併せて力戦し、之を大破し、郡界平らぐ。後に安風賊の戴風等が乱を作し、羊賊は復た之を撃破し、斬首すること三千余級、生かして渠帥を獲らえ、其の余党の輩は原して*1平民と為し、佃器を賦与して農業に就かしむ。
 中平三年、江夏兵の趙慈が反叛し、南陽太守秦頡を殺し、攻めて六県を没せしめ、羊続は拝して南陽太守と為る。当に郡界に入るや、乃ち羸服して*2閒行し*3、童子一人を侍らせ、県邑を観歴す、風謡を採問し*4、然る後に乃ち進む。其の令長*5は貪なるも絜なるも、吏民は良なるも猾なるも、悉くその状を逆知し*6、郡内は驚き竦み、懾れ震わざるは莫し。乃ち兵を発して荊州刺史王敏と共に趙慈を撃して之を斬り、首を獲ること五千余級。属県の余賊併せて羊続に詣で降る*7。羊続は為に上言し、其の枝附を宥む。賊既に清平たり、乃ち班して政令を宣し、民の病利*8を候い、百姓歓服す。時に権豪の家は多く奢麗を尚び、羊続は深く之を疾とし、常に衣は敝して*9食は薄く、車馬は贏敗す*10。府の丞嘗て其の生魚を献ずるに、羊続は受けるも而して庭に懸けたり。丞は後に又之を進めたれば、羊続乃ち出で懸ける所の者を前め以てその意を杜ざす*11。羊続の妻は後に子の羊秘と倶に郡舎に往かんとするも、羊続は門を閉じて内れず*12、妻自ら羊秘を将いて行かんとす*13。其の資蔵は唯布衾有るのみにして、袛裯*14は敝し、塩、麦は数斛のみ。(羊続は)羊秘を顧みて勅して曰く、「吾自ら奉ずること此の若く、何ぞ以て爾の母に資するか?*15」母と倶に帰せしむ。
 中平六年、靈帝は羊続を以て太尉と為さんと欲す*16。時に三公を拝するは、皆な東園に礼銭千万を輸し、中使に之を督せしめ、名を「左騶」と為す*17。其れ之の往く所、輒ち迎えて礼敬を致し、厚く賄賂を加う。羊続乃ち単席に人を使わして坐せしめ、縕袍を挙げて以て之を示して曰く、「臣の資する所、唯其れのみ*18 *19。」左騶之を白さば*20、帝悦ばず*21、此を以て公位に登らず*22。而して徴して太常に為さんとするも*23、未だ及び行かずして、会*24病にて卒し、時に年四十八。薄く斂して、賵遺を受けざるを遺言す。旧典、二千石にて卒官せば百万を賻るに、府丞の焦倹*25羊続の先意に遵い、一つも受けるところ無し。詔書して美しきを褒め、太山太守に敕して府の賻銭を以て羊続の家に賜うを云う*26

その時々の個人的感想や解釈は上の書き下し文中の注釈に入れたので、参照願います。羊続は見ての通り蓄財に励まなかったので全く資産が無く、売官横行当時の靈帝期ではかなり不利に働いています。ただ、反乱鎮圧の実力は買われていたようで、廬江太守と南陽太守の鎮撫の実績がそれを物語っている。流石は羊祜の祖父。ちなみに羊祜の父親は羊衜、父の死後にお世話になった叔父は羊耽の為、この列伝で登場する羊秘は傍系か何かなのかも知れない。

*2012/02/21 09:50 – mujin氏から幾つかご指摘を受けて修正しました。ありがとうございます。

*1:免じて、の意味。

*2:ボロボロの服を着て

*3:間道を通り

*4:風謡を聞いて回ったということか?

*5:県令と県長の意味だろう。

*6:mujin氏の指摘:事前に察知との意味

*7:要は生き残った趙慈の一味は続々と羊続等に降伏したということだと思う。

*8:病=損、利=益なので損益の意味。

*9:着る物がボロボロ

*10:とにかくボロボロ

*11:王文台は『北堂書鈔』から次のエピソードを引用している。羊続は淡水魚が大好きだったので、府丞の焦倹は三月に鯉魚一頭を献上しようと望む。しかし、献上された鯉魚を羊続は食べずに庭に懸け、翌年に再び鯉魚を献上してきた焦倹へ干された鯉魚を見せて「私は鯉魚を食べないよ」という意思を示したのだという。これは私見だが、恐らく焦倹は気を利かせて上司の好きな食べ物を献上しようとしたのだろうが、それを受け取れば部下へ暗に今後もそういった行為を要求することにもなりかねない。質素倹約を掲げていた羊続としては、トップ自らその姿勢を顕示する為に大好きな淡水魚を絶ったのだろう。

*12:mujin氏の指摘:内=入

*13:羊続が中に入れようとしないので、妻が子供を引き連れて無理矢理部屋の中に突入した、という事だろうか(笑)

*14:短衣のこと。

*15:私が宮仕えするのはこういった態度であるのに、どうしてお前の母に分け与えるようなものがあるだろうか、という意味だろう。つまりこの時、羊続の妻が何か資産になる物を取りに来たのだろう。で、何もなかった…と。

*16:袁山松『漢書』には、時の太尉であった劉虞が羊続に地位を譲渡しようとしたのだという。

*17:要は売官を管理する為の役職だろう。お金の受け渡しが確実に行われたか確認する為の。

*18:実家に住む妻にすら分け与える物がないのだから、当然送る賄賂なんて持っていないのである。

*19:尚、このエピソードから巷では「天下清苦,羊興祖。」と謡われたという。出典は范泰『古今善言』。

*20:普通なら宴会場に連れて行って大いにもてなしを受ける役得なのに、粗末な席に通されて何もないと言われたら、そりゃあ心証が悪いに決まってますよね。

*21:売官が目的なので、お金が貰えなかったら大いに不都合なのです。

*22:劉虞の推薦は通らなかった、ということになる。

*23:太常なら銭は要らないのか、それとも羊続の評判を買ってのことなのかはわからない。たぶん後者。

*24:「たまたま」と読んでちょうどそのとき、と言う意味。

*25:鯉魚を羊続に贈るも受け取って貰えずにションボリしていた(かどうかは定かではない)あの人である。

*26:ということは、この二千石官(要は太守)が死去した時の百万銭の受取手は、本来その郡府の庫ということになる。家族が対象ではないらしい。

『晋書』唐彬伝

唐彬字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬, 好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦恱經史,尤明易經,隨師受業,還家教授, 恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。

彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽恱,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見唐彬,卿受蔽賢之責矣。」

初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞衆力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」

俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。

後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為衆軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍唐彬受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啓戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。

北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征 鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。

彬初受學於東海閻德,門徒甚多,獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。

元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹, 錢二十萬。長子嗣,官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。

まず書き下し文。例の如く、怪しいところもあるので注意して下さい。

 唐彬字は儒宗、魯国鄒の人なり。父の唐台、太山太守たり。唐彬は経国大度有るも、而して行検拘らず*1。少くして弓馬を便とし、游猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び*2、力の強きこと人を兼ぬ。晩なれば乃ち経史を敦く悦び、尤も『易経』に明かたりて、師に随いて業を受け、家に還りて教授すること恒に数百人*3。初め郡の門下掾と為り、転じて主簿たり。刺史王沈は諸参佐を集め、盛んに距呉の策を論じ、以て九郡の吏に問う。唐彬と譙郡主簿の張惲は倶に呉兼ねる可きの勢い有るを陳し、王沈は其の対を善しとす*4。又唐彬に呉未だ伐つ可からずを難言せしむるは、而して辞理皆屈す*5。還って功曹に遷り、孝廉に挙げられ、州は(唐彬を)主簿に辟し、累遷して別駕に遷る。
 唐彬は忠粛公亮、尽規匡救、諫を顕さず以て自ら彰かにす。又奉使相府の計事に詣で、時に僚佐皆当世の英彦なるも、唐彬を見るに欽み悦ばざるは莫し*6。之を文帝*7に称するや、帝は其の参軍孔顥に問うを以てす。孔顥其の能を忌みて久しく答えざるを良しとす*8。陳騫坐に在りて、板に斂して而して称して曰く、「唐彬の為人、陳騫に勝りて甚だ遠し。」帝笑いて曰く、「但能く卿の如きは固より未だ得易からざるに、何ぞ勝を論じるや。」因りて唐彬を辟して鎧曹属と為る。帝問うて曰く、「卿何を以て辟に致すか?」対して曰く、「陋巷に修行し、古人の遺迹を観、言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。」帝は四坐を顧みて曰く、「名は虚行たらず。」他日、孔顥に謂いて曰く、「近くで唐彬を見るに、卿は蔽賢の責を受くべし。*9
 初め、鄧艾の誅するや、文帝鄧艾が久しく隴右に在るを以て、素より士の心を得る。一旦夷滅し*10、辺情騒動を恐れ、唐彬を使して密かに之を察せしむ。唐彬還り、帝に白して曰く、「鄧艾は詭狭に克つを忌み、能を矜り才を負い、順従なる者は見事と為し、直言なる者は之迕に触れると謂う*11。」長史司馬、参佐牙門と雖も、答対が指を失せば、輒ち罵辱せらる*12。身を処するに礼無く、大いに人心を失す。又行事役を施すのを好み*13、数しば衆の力を労す。隴右甚だ之を患苦し、其の禍を聞きて喜び、用を為すを肯じえず。今諸軍已に至らば、以て内外を鎮圧するに足り、願わくば以て慮を為す無かれ*14。」
 俄に尚書水部郎に除せらる*15。泰始の初め、関内侯を賜爵せらる。出でて鄴県令を補し、唐彬は徳を道き礼を斉え、期月にて化成す。弋陽太守に遷り、禁防を設けるに明るく、百姓之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東を呉寇に接するも、監軍の位を欠き、朝議して武陵太守楊宗及び唐彬を用いんとす。武帝*16は以て散騎常侍の文立に問い、文立曰く、「楊宗、唐彬倶に失す可からず。然るに唐彬は財欲多く、而して楊宗は酒を好み、惟陛下之を裁せよ。」帝曰く、「財欲は足るべきも、酒は改め難し。」遂に唐彬を用う*17。尋ね又詔して唐彬を監巴東諸軍事とし、広武将軍を加う*18。征呉の策を上し、甚だ帝の意と合す。
 後に王濬と共に呉を伐し、唐彬は衝要に屯拠し、衆軍の前駆と為る。毎に疑兵を設け、機に応じて勝を制す、西陵、楽郷を陥とし、多く擒獲する所とす。巴陵、沔口以東より、諸賊集まる所、震懼せざる莫く、戈を倒して肉袒す*19。唐彬は賊寇已に殄するを知り、孫皓将に降らんとするに、未だ建業二百里至らず、疾と称して遅留し、競わざるを示すを以てす*20。果たして先に到る者有らば物を争い、後に到る者は功を争い、時に有識は唐彬の此の挙を高せざる莫し。呉平らぎ、詔して曰く、「広武将軍唐彬は方隅の任を受け、呉寇を東御し、南は蛮越に臨み、疆埸*21を撫寧し、綏御の績有り。又毎に慷慨し、志は功を立つるに在り。頃は征討、疾くと奉命を扶け、首め*22に戎行を啓き、俘を献じ馘を授け*23、勲効顕著たり。其れ唐彬を以て右将軍、都督巴東諸軍事と為す。」徴せられて翊軍校尉を拝し、上庸県侯に改封せられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜せらる。朝に疑議有らば、毎に参与す*24
 北虜北平を侵掠し、唐彬を以て使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右将軍と為す。唐彬既に鎮に至り、卒を訓して兵を利し、農を広くし稼を重ね、威震いて武耀き、国命を宣喩し、恩信を以て示す。是に於いて鮮卑二部大莫廆、擿何等並びに侍子を遣わせ入貢せしむ。学校を兼修し、誨誘倦むこと無く、仁恵は広く被る。遂に旧境を開拓し、地を却くこと千里。復た秦の長城を塞ぎ、温城より碣石に洎び*25、山谷は且に三千里に綿亙*26せんとし、軍を分けて屯守し、烽堠して相望む。是に由り辺境は安を獲、犬吠の警無く、漢魏より征鎮之比する莫し。鮮卑諸種畏懼し、遂に大莫廆を殺す。唐彬之を討たんと欲するも、上に列ね報を俟てば虜は必ずや逃散するを恐れ*27、乃ち幽冀の牛馬を発す*28。参軍の許祗は密かに之を奏し*29、詔して御史を遣わし檻車に唐彬を徴して廷尉に付すも、事を以て直して釈せらる*30。百姓は唐彬の功徳を追慕し、生きて碑を立て頌を作るを為す*31
 唐彬は初め学を東海の閻徳に受け、門徒甚だ多くも、唐彬は廊廟の才*32有りと独り目せらる。唐彬官成ずるに及ぶも、而して閻徳已に卒し*33、乃ち為に之の碑を立つる。
 元康初め、使持節、前将軍、領西戎校尉、雍州刺史を拝す。教を下して曰く、「此の州名は、士人林藪*34。処士の皇甫申叔、厳舒龍、姜茂時、梁子遠達、並びに志節清妙にして、履行高潔。境を践みて風を望み、虚心にして饑渇し、加を思い致を延べ*35、以て不臣の典を待つ*36。幅巾相見え、道を論ずるのみにして、豈に吏職を以てし、染を屈して規を高くせんとするか。郡国礼を備えて遣いを発し、以て邑の望に副う。」是に於いて四人皆到り、唐彬を敬い而して之を待す。元康四年卒官し、時に年六十、諡曰く襄、絹二百匹、銭二十万を賜う。長子の唐嗣、官は広陵太守に至る。少子の唐岐、征虜司馬たり。

部分部分でわからないところがあったが、特に晩年で教を下した辺りはわからなかった。アレはきっとどこかの四書五経あたりが出典のはず。わかる人にはわかるのでしょう。雍州のあの4名って所謂竹林の七賢の亜流だったりするんでしょうか。そういった人たちが慕って駆けつけるくらいに唐彬は凄いんだぞ、と。

*1:才能があって度量も広いけど、品行方正というわけではない。後述するように蓄財の趣味がある。

*2:逃げる鹿に追いつける走力!

*3:師匠に経学を習い、学習後に帰宅したら自分の門下生が数百人いて教えてました、と。唐彬の師匠は列伝の最後に出てくるが東海郡の閻德という人物。

*4:主戦論、ということでしょうね。

*5:呉の討伐は時期尚早という意見を難じた言動を唐彬がしたら、討伐反対派は唐彬の意見に従ったということ。

*6:奉使が相府の計事に詣でたとき、その時の唐彬の同僚はみんな当代の立派な人物であったが、それでも唐彬を見たら恭しく思われた…要は同期の中でも別格だったと云うことでしょう。

*7:『晋書』なので司馬昭のことです。

*8:孔顥は恐らく、唐彬が品行方正でないところを評価していなかったのかも。それとも妬みの類か。

*9:司馬昭がとても唐彬を気に入った為、孔顥が唐彬について何も答えなかったのを咎められた、ということである。

*10:夷=蜀漢

*11:鄧艾は才能を自負していて、自分の意見に従う人が評価され、直言する人物は反抗的と見なされるということ。正確な表現かどうかわからないが、唐彬の鄧艾評は「自分の才能を強く信じているため、その手足になる人物(イエスマン)を評価し欲しがっている」と。

*12:長史だろうが司馬だろうが参佐だろうが牙門将だろうが、鄧艾の要求に対する答えが的を得ていなかったら、罵倒されて人前で辱められるのだろう。社内である程度の地位のある人が、他の社員の前で重役から罵倒されているようなものである。

*13:たぶん、公共工事的な何か。

*14:鄧艾は人の恨みを買って隴右の人から支持されていないから、鄧艾が誅殺されたからといって司馬昭が心配するようなことは何もないですよ、という結論。唐彬、随分とぼろくそに論じたものである。

*15:何だ?治水又は水軍担当の尚書郎か?

*16:司馬炎のこと。

*17:財欲は満たされることがあるかも知れないが、酒好きは治らないので同程度の能力なら唐彬を使おう、という判断。酒による失敗のリスクを取るより、物欲に伴うリスクを司馬炎は取った。文立はその辺の判断がし辛く、後の責任回避のために司馬炎へ判断を押しつけたのだろう。すごくサラリーマン的だ、文立(笑)

*18:この文脈から判断すると、監○○諸軍事は都督職(都督○○諸軍事)の品官的な意味での下位互換と言うよりは、監軍の役割が色濃く残った職務だと言えるかも知れない。他の事例も確認したい。

*19:呉の軍勢が戦意喪失して悉く唐彬に降伏したことを指す。

*20:已に敵も戦意無く勝利も時間の問題なので、建業一番乗り競争に加わらず其の手前で留まったらしい。

*21:国境のこと。元々は田畑のあぜ道。

*22:始め、の意味。

*23:「馘」とは戦功を報告するために切り落とす敵兵の左耳、転じて首のこと。首級。

*24:これは翊軍校尉の職務なのだろう。都督職の仕事じゃないし。

*25:及び、の意味。

*26:長く続く、の意味。

*27:即時に軍事行動へ移りたいが、その意見を中央に伺って結果報告を待つという時間の浪費はしたくない、という考えだと思われる。

*28:冀州の牛馬を徴発できたのは護烏丸校尉の権限?少なくとも監幽州諸軍事ではないだろうな。

*29:所謂「コンプライアンス違反です!ちゃんとルール守りましょう!」という事で密かに上奏したのかも知れない。

*30:一時更迭されたけど事情を説明したら許された、という事だと思う。

*31:碑を立てたいあまりに自作してしまった某左伝癖の人だって居るのに…羨ましい限りです。

*32:廊廟=廟堂。表舞台で政治を取り仕切る才能がある、という意味。

*33:期待通りに唐彬が大成した時には既に師匠は亡くなっていた、と。

*34:人材が沢山居るから雍州という名前にしました、ということだろう。

*35:思加延致って何かの熟語だろうか。よくわからん。

*36:これもどういう意味かよくわからない。どこか経典の定型文だろう。

『後漢書』漢陰老父伝

所謂「名無しの権兵衛」が列伝に載っていたので、興味深く読んでみる。たぶん、読んで得られることはない(笑)

漢陰老父者,不知何許人也。桓帝延熹中,幸竟陵,過雲夢,臨沔水,百姓莫不觀者,有老父獨耕不輟。尚書郎南陽張溫異之,使問曰:「人皆來觀,老父獨不輟,何也?」老父笑而不對。溫下道百步,自與言。老父曰:「我野人耳,不達斯語。請問天下亂而立天子邪?理而立天子邪?立天子以父天下邪?役天下以奉天子邪?昔聖王宰世,茅茨采椽,而萬人以寧。今子之君,勞人自縱,逸遊無忌。吾為子羞之,子何忍欲人觀之乎!」溫大慙。問其姓名,不告而去。

 漢陰老父は何許の人か知らざるなり。桓帝延熹中、竟陵に幸し、雲夢を過ぎ、沔水に臨み、百姓観ざる者なくも、老父独り有りて耕すを輟めず*1。尚書郎の南陽の張溫は之を異とし*2、使問うて曰く「人皆来たりて観るに、老父は独り輟めざるは何ぞや?」老父は笑い而して対せず*3。張溫は道を百歩下がり、自ら与に言す。老父曰く「我は野人のみ、斯く語に達せず。請うて天下乱れるを問い而して天子を立つるか?理め*4而して天子を立つるか?天子を立ちて以て天下の父たるか?天下に役して以て天子を奉ずるか?昔聖王宰し世、茅茨采椽*5、而して万人寧するを以てす。今の子の君、人を自ら縦に労り、逸し遊びても忌むこと無し。我は子の為に之を羞とし、子は何ぞ人之を観るを忍か!」張溫大いに慙ず。其の姓名を問うも告げず而して去る。

この次の列伝には「陳留老父」という同じく本貫不明、氏名詳細不明の老人の列伝が続く。共通点は桓帝の頃であって、この漢陰老父は延熹年間、陳留老父は党錮事件直後のエピソードだということである。この列伝そのものに信憑性があるかどうかはわからない。しかしこの列伝をわざわざ配したこと自体、内容を勘案しても、『後漢書』著者の范曄が党錮の禁を発令した宦官勢力に対して反発した表現の一部なのだろう。

*1:桓帝が巡幸してきたので皆が桓帝ご一行に注目したのに、独り桓帝を無視して農耕に励む老人がいました。

*2:皇帝が目の前を通過してもガン無視ですからね…

*3:張溫の使者「皆が皇帝陛下に注目しているのに、貴方は何で独り作業を止めないんですか?」 老人「(笑)」 …というイメージだろうか。

*4:治める、と同義。

*5:茅茨は茅と茨、采椽はクヌギの垂木。韓非子の「堯舜は采椽を刮せず、茅茨は翦せず」が出典。

『後漢書』曹騰伝

曹騰字季興,沛國譙人也。安帝時,除黃門從官。順帝在東宮,鄧太后以騰年少謹厚,使侍皇太子書,特見親愛。及帝即位,騰為小黃門,遷中常侍。桓帝得立,騰與長樂太僕州輔等七人,以定策功,皆封亭侯,騰為費亭侯,遷大長秋,加位特進。

騰用事省闥三十餘年,奉事四帝,未嘗有過。其所進達,皆海内名人,陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等。時蜀郡太守因計吏賂遺於騰,益州刺史种暠於斜谷關搜得其書,上奏太守,并以劾騰,請下廷尉案罪。帝曰:「書自外來,非騰之過。」遂寢暠奏。騰不為纖介,常稱暠為能吏,時人嗟美之。

騰卒,養子嵩嗣。种暠後為司徒,告賓客曰:「今身為公,乃曹常侍力焉。」

嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬,故位至太尉。及子操起兵,不肯相隨,乃與少子疾避亂琅邪,為徐州刺史陶謙所殺。

 曹騰字は季興、沛国譙の人なり。安帝時、黄門従官に除せられる。順帝東宮に在りて、鄧太后曹騰の年少にして謹厚なるを以て、皇太子の書に侍らし、特に親愛せらる。帝即位するに及び、曹騰小黄門と為り、中常侍に遷る。桓帝立つを得るや、曹騰と長楽太僕の州輔等七人、策を定む功を以て皆亭侯に封ぜら、曹騰は費亭侯と為り、大長秋に遷り、特進の位を加えらる。
 曹騰は省闥に用事すること三十余年、四帝に奉じ事え、未だ嘗て過有らず。其の進め達する所、皆海内の名人たり。陳留の虞放、邊韶、南陽の延固、張溫、弘農の張奐、潁川の堂谿典等。時に蜀郡太守計吏が曹騰に賂遺せしむるに因り、益州刺史の种暠は斜谷関に於いてその書を捜し得、太守に上奏し、并せて以て曹騰を劾し、廷尉に下して罪を案ずるを請う。帝曰く「書は外より来たれば、曹騰の過に非ず。」遂に种暠の奏を寝かす。曹騰は繊介為さず、常に种暠能吏を為すと称し、特に人は之を嗟美す*1
 曹騰卒し、養子の曹嵩嗣ぐ。种暠後に司徒と為りて賓客に告げて曰く「今身公と為るは、乃ち曹常侍の力なり。」
 曹嵩霊帝持に中官及び西園に銭一億万を貨賂し、故に位は太尉に至る。子の曹操起兵するに及び、相随うを肯じず、乃ち少子の曹疾*2と琅邪に乱を避け、徐州刺史陶謙に殺さるる所と為る。

と言うわけで、曹操の祖父こと曹騰。ま、有名すぎるので論評は避けます。王鳴盛『十七史商&#x69B7』や劉知幾『史通』等が、宦者列伝そのものや范曄が執筆の際に参考にしたであろう『東觀漢記』を批判しているのは面白いですね。劉知幾『史通』は先日注文していて、恐らく3月中旬頃までには自宅に到着すると思うので、当時の史料批判の姿勢を参考にしたいと思います。

*1:『後漢書集解』では王鳴盛の意見として「曹騰は国を誤らせた悪人なのに良く書かれているのは『東觀記』の元文か、魏代の人物による潤色の影響ではなかろうか」とも述べている。そして『東觀記』に関しては孫程伝の集解で「当時の孫程や鄭衆などの有力宦官は東観にいた為、筆を曲げている」とする劉知幾の見解を掲載している。つまり、この宦者列伝そのものが『東觀記』のバイアスを受けて成立していて片手落ちだと述べている。私は『東觀記』の実情を調べていないので、この意見の是非は論評しないでおく。

*2:『官本考証』曰く、『魏志』では曹嵩の少子は曹徳との表記。