渡邉将智「政治空間よりみた後漢の外戚輔政―後漢皇帝支配体制の限界をめぐって」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊』56, 59-75, 2010)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018797612

この論文の主題は後漢時代の和帝期以後、皇帝権力の弱体化を「空間」の概念を用いて論じることにある。渡邉氏は後漢時代において皇帝の補政を二段階で区分する。

  1. 光武帝~章帝期の内戚補政の時代
  2. 和帝期以後の外戚・宦官補政の時代

特に補政の仕組みを考慮する上で注目に値すべきは章帝と和帝であるとする。章帝は侍中や黄門侍郎を外戚竇氏に任じて皇帝への禁中での口頭進言を許し、さらに遺言で竇氏一族を補政の任に就ける。外戚を補政の任に就けることは、光武帝以後行われてこなかったことであった。章帝の後を受けた和帝は、竇氏一派が和帝弑殺を画策したことから、侍中の禁中の出入りを原則禁止にして中常侍にのみ禁中での口頭進言を許すことになった。しかし、結局は外戚勢力は宦官と結託することで禁中への影響力を維持したため、外戚・宦官主導の補政が続いて皇帝権力は弱体化することになる。

これが本論文の主なストーリーである。政治空間での章帝期と和帝期の大きな違いは、侍中が禁中出入りを許されているかどうかの違いである。しかし側近政治そのものを克服できなかったため、和帝期以後も中常侍(宦官)を通じて外戚も影響力を行使できた。私がイマイチよく分かっていないのは、外戚が中常侍との結託を欲するのは分かるが、中常侍(宦官)側が外戚の力を欲したのは何故だろうか、ということである。論文では『後漢書』何進伝における張譲の発言を以てその論証としているが、何故宦官が外戚の力を欲しているかを論じ切れていないように思う(或いは論じるまでもなく自明だとか?)。

あまり『後漢書』を読み切れていないので不勉強なだけかも知れないが、その辺が少し気になった次第である。

海上知明「平知盛と「海軍」戦略―軍記物語に見いだされる戦略原則」(戦略研究学会編『戦略研究 第5号』芙蓉書房出版、2007年、p.69-80)

日本流の戦争方法 (年報戦略研究)

日本流の戦争方法 (年報戦略研究)

今年のNHK大河ドラマで平清盛が主人公ということなので、テレビは見ていないけどもそれに関する論文を一つ紹介する。

この論文の主旨は平家が都落ちしてから滅亡するまでの間、実は効果的な戦略を実施して源氏の西進を阻んでいたとする内容の論文。海軍戦略に関する書籍はマハンやコーベットとなど数多くあるが、この論文ではマハン海軍戦略を適用している。また、この時代を知るためには主として軍記物に頼らざるを得ないが、こうした点についてこの論文では次のように述べている。

しかし優れた社会科学の分析により軍記物の不備を補うことは十分に可能であると信じるものである。社会科学的分析で明らかとなるのは、単なる史実ではなく、行われていたことの本質である。

そして、知盛の戦略を海上氏は以下のように結論づける。

初期の方針は海峡封鎖力を確保することにより瀬戸内海に圧倒的な制海権を確立し、その制海権のもとで陸上に影響力を拡大していこうというもので、これが「一ノ谷合戦」で切り替わり、海上から山陽道を攻撃して疲弊させる形になる。さらに源範頼が西国に入ってからは山陽道に展開した源氏軍の補給線を締め上げる段階へと移行する。この一連の「海軍」戦略を可能にしたのが屋島と彦島の存在であり、屋島の喪失が戦略段階の終了を意味する。

海上氏は論文の中で、この瀬戸内海の海峡封鎖によって源氏が実際に平家掃討に苦しんでいたことを『玉葉』『吾妻鑑』の記載から指摘する。源氏はこれにより中国地方を通過するためには陸上で山陽道へ長々と兵站線を築くことになり、平家は海上からこの兵站線を攻撃することで源氏を苦しめる。瀬戸内海の諸島を押さえることで効果的に管制を利かせていたのである。謂わば屋島はカリブ海におけるキューバである。この屋島を喪失したことで瀬戸内海での管制が利かなくなり、戦略上の有効的な手立てを失うことになる。

私は『平家物語』を昔に1回だけ読んだ記憶がある程度だが、こういう視点から軍記物を読むことはできなかった。しかし改めてこの論文を読むと、平知盛の海軍戦略の見事さをうかがい知ることができる。また海軍戦略の文献もしばらく読んでいないので、また時間を改めて取り組みたい。

角田和弘「E.H.カーの『国際秩序』構想―平和的変革とその失敗」(戦略研究学会編『戦略研究 7』芙蓉書房出版、2009年、p.119-136)

戦略研究 第7号 インテリジェンス

戦略研究 第7号 インテリジェンス

この論文はE.H.カーの主著である『危機の二十年』やその前後にE.H.カーが雑誌に投稿した論文から、彼の構想していた国際秩序が如何なるものであるかを解明し、そして評価することにある。

本論文においてカーへの評価は厳しい。というのも、カーは『危機の二十年』においてドイツのミュンヘン会議におけるズデーテン地方割譲、イタリアのエチオピア侵攻を是認しているからだ。カーは「持てる者」イギリスと「持たざる者」ドイツ・イタリアが武力衝突を避けるために、話し合いの下で遂行されたことを評価しているからだ。本論文では以下のように結論づける。

既に述べた通り、カーは「持たざる国」であるドイツ、イタリアを「持つ者」の立場に転じさせようとした。イギリスとドイツ、イタリア間の道義的関係の再構築を成し遂げ、そしてドイツ、イタリアが現状維持に利益を見いだすことによって、その力を国際秩序の維持のために用いようとした。

カーの主眼は欧州大戦の再現を阻止することであった。その為にはチェコスロバキアの多少の犠牲もやむを得ないという判断だった。しかし、史実はそれで収まるどころか両国の更なる利益拡大行動をもたらす。後世から見てこの出来事はドイツ、特にヒトラーによる独走を許すことになる。このときの状況をヴァルター・ゲルリッツは次のように記す。

だがヒトラーはミュンヘンの勝利によって、参謀本部の精密な計算よりも自分の直感の方が常に正しい、との確信を強めた。確かにズデーテン危機をめぐるヒトラーの勝利は、伝統的な官庁、すなわちヴィルヘルム街の外交と参謀本部の戦略を全く無視して実行された政策の結果だったのである。こうして官庁はヒトラーに助言するどころか、単なる政策の道具とみなされるようになった。
(ヴァルター・ゲルリッツ『ドイツ参謀本部興亡史 下』(学研M文庫)p.196-197)

『危機の二十年』は当時の国際政治史の古典として高い評価を受けている。しかし、名著であったとしても一方でその認識全てが正しいとも限らない。だが仮にカーの目指した国際秩序が正鵠を射るものでなかったにせよ、『危機の二十年』の訳者である原彬久氏が訳者後解説の部分で述べる通り、戦間期の国際的な動きを分析して明らかにすることが目的であればその価値は大きく減ずるものではない。本論文はあくまでカーの目指した国際秩序の姿を明らかにすることが目的であって、決して『危機の二十年』に価値がないと述べているわけではないことを記しておく。