魏晋南北史研究会 第14回大会

去る9月15日(土)、午後から魏晋南北史研究会の第14回大会が開催された。その先週及び先々週は三国志学会関連であったが、三国志学会の大会や講演会は視点が一般人に向いているのに対し、この魏晋南北史研究会は専門家が相手の大会である。当然、一般人の参加者はごく少数に限られている。

さて、今回の発表は2件。1件目は福原啓郎先生の発表で、「西晋の張朗墓誌の総合的研究を目指して」というもの。墓誌が研究に選ばれる理由は幾つかあるのだが、一つは墓の中にあって風に晒されておらず保存状態が比較的良好であること。曰く、文献資料と近似性がある、と。また量的な問題もあって、魏晋期以前は墓誌碑の数は非常に限られているが、逆にこの時代より先になってしまうと量が膨大になる。よって、研究するには魏晋期の方がちょうど良いそうだ。決して三国志が好きで魏晋期を選択したわけではないらしい。

魏晋期の墓誌碑には大きく二つにジャンル分けされ、一つは張朗のような無名人のもの、もう一つが荀岳のような有名人のものだ。墓誌碑の形など、その違いは重層的に想定される為、数々の特徴をピックアップして比較検討する必要があると福原先生は述べていた。

例えば文字量が碑陽、碑陰併せて400文字あるがこれは多い部類に入る。そして夫婦合葬、嫡子が居るのに墓誌が作られている(魏晋期における墓誌は通常、嫡子が居ない場合に作成される)等々。記載も張朗が無官であったことから、儒教的な徳目での良さをつらつらと記載している(通常は出世や功績を記す)。

最後に、福原先生は近年出土のものは偽物の墓誌が多いと述べていた。よく見れば偽物にも特徴が有るらしいのだが、その知見は是非とも記録として残して欲しいと思う。例えば偽物の石刻資料だけを集めて個別に全部批判し、一冊の本にするとか。

二つ目は窪添慶文先生の「北朝における弘農楊氏ー楊播一族を中心に」という発表。隋唐時代になると楊氏の墓誌が大量に出てくるが、北朝時代はそうでもない。特徴として、漢人貴族ではあるが武名で名を挙げていること、そして弘農楊氏として華陰を本貫としているが、実際には北朝時代の弘農楊氏は華陰との繋がりが強くないことだった。

弘農楊氏、と言えば真っ先に三国時代に活躍した楊脩の一族を想像してしまうのだが、そこから北朝までの流れはどうなのだろうか。そういえば楊脩以後、よく分かっていないように思う(実は北朝の弘農楊氏から隋代の楊素に至る過程もハッキリと分からないらしい)。

氣賀澤先生と窪添先生との質疑のやりとりを聞いて、この分野もまだ未解決なところが多いのだろうな…と実感した次第。しかし、だからといって豊富な石刻資料の中には偽物もあったりして、私のような素人には手を出しにくい分野に相違ないだろう。

 

福原啓郎『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晋期における政治史及び社会史に関する論考。恐らく同氏の著書『西晋の武帝 司馬炎』(白帝社)で名前を知っている人も多いと思うが、基本的な方向性は同じである。但し本書は学術書である為、先行研究に対する言及や注釈が豊富である(それだけではないけども)。目次等に関しては三国志ニュースさんで言及されているので全体的な紹介や論評はお任せすることにして、特に興味を持った箇所だけ言及する。

まず本書の概略に関しては、序論と結語の部分を読み通せば分かるように構成されている。また、図解は基本的に少ないものの、石刻資料(第四章)や墓誌(第十一章)には比較的多く図面が載っている。第九章の『銭神論』や第十章の『釈時論』に関しても主要な逸文に関する原文と全訳を載せているので、後で参照するのに役立つ。

そして個人的にもっとも興味を持ったのが、第五章「八王の乱の本質」及び第六章「西晋代宗室諸王の特質」である。この箇所は西晋時代の八王の乱に関して、従来研究では宗室の諸王が自らの欲するままにクーデターを繰り返したと見られがちであるが、それに対して貴族制の観点から一定の方向性を見出そうとするものである。そして著者がそのキーワードとして摘出したのが「輿論」の存在である。著者は言及する(赤字は拙による)。

この府主と幕僚の関係を考察してみると、そもそも府主に辟召されて幕僚となっていた士大夫は、府主が自らに人心を繋ぎ留めるために辟召した人物、すなわち輿論の期待を担っている人物であり、逆に言うならば、輿論を導く立場にある人物であり、それ故に幕僚の府主に対する批判は、輿論の具体的な代弁である。
(p.174:第五章第二節 輿論について)

このように宗室諸王は開府することにより、軍府の属僚および管内の郡県の長官の任免権を掌握していたのである。ではすべて宗室諸王の恣意によるかといえばそうではなく何かに規制されている。その規制するものが士大夫の輿論であり、逆に言うならば輿論で支持された人物こそその軍府内の僚属となるのである。・・・(中略)・・・こうして府主である宗室諸王は辟召した士大夫(すなわち貴族)を通して具体的に輿論と結びつくのである。
(p.214:第六章第二節 宗室諸王と士大夫)

突きつめれば、宗室諸王と輿論の存在とその結合が詔敕の代替となったといえよう。そしてこうしたありかたこそ逆に詔敕などに現われた皇帝の権威を生ぜしむる由来を示唆するのではないか。・・・(中略)・・・つまり魏晋国家体制は図式的には軍隊と輿論の結合であり、その両者を結ぶ接点として皇帝が存在するのであり、皇帝の権威はその背景に両者により支えられており、そこから生じているのである。
(p.222:第六章第三節 宗室諸王の権威)

 

上述するように、皇帝の権威が軍権及び輿望を担う士大夫層の支持から構成されていると著者は結論づける。八王の乱の前半で矯詔によるクーデターが、後半で詔勅に因らない義起が可能であったのも軍権と士大夫層による支持があったからであり、これがなければ皇帝と雖も自由に権力が振る舞えなかったということである。

ただ個人的な贅沢を言えば、この輿論を構成する士大夫層が如何なるものであるかについてもう一歩踏み込んだ言及が欲しいように思えた。それは果たして川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』(岩波書店)で言及するような「郷論環節の重層構造」に由来するものなのか、それとも渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)で言及するような文化価値によるものなのか、それともそれらとは別の見方によるものなのか。系譜的に川勝義雄氏の説をベースにしていると勝手に想像しているが、ひょっとすると私が見落としているだけかも知れない。

三国時代というよりは魏末~西晋に掛けての言及が殆どであるから、三国時代末期に興味のある人は購入を検討しても良いのではないだろうか。

諸葛亮の軍事能力に関する一般評価

差し当たって諸葛亮の軍事能力に関し、ネット上で色々と意見を拝見することがあるのだが、「正史で諸葛亮の軍事能力は高く評価されていない」とする意見がある。だが、果たして実態はどうなのか。今回は私自身があれこれ論じるのではなく(このBlogで唯の一度も何か論じたことはないような気もする)、実際に史学に携わっていた方がどのように述べるかを紹介する。史料の都合上、私の手元にある本だけで限定したい。

まず岡崎文夫氏は、

端的に考うるところをいうならば、陳寿の評するところ、もっとも精確であると思う。…まず軍政を治め、…いやしくも危険に渉る行動は勉めてこれをさけた。これ時に一場の戦闘に勝機を逸した点があったのであろう。彼の偉大な点は、むしろ失敗してのち、ただちに軍容を整うるに綽然たる余裕を存する点にある。
(『魏晋南北朝通史 内篇』(東洋文庫)p.55)

と述べ、諸葛亮の軍政能力は高く評価すれど、勝機を掴む点では評価がいまいちである。この本は元々昭和七年刊行であるから、当時からこのような諸葛亮評価があったのだろう。また宮崎市定氏も

…蜀という国は先主劉備からの預かり物であって、自分のものではない。したがって有利そうにみえても投機的な戦争に運命をかけるわけにはいかないのだ。…ところが戦争はもともと投機である。彼の正々堂々の軍も、先鋒の将、馬謖の失敗で全体が総崩れとなって、本国へ引き上げなければならなかった(二二八年)。そこで、孔明はもともと戦略家ではないのだ、応変の将略はその長ずるところにあらず、という批評が行われる。確かにその通りであったと思われる。
(『大唐帝国』(中公文庫)p.97)

と述べ、この書は元々昭和四三年に刊行された書籍の文庫版であるが、基本的には岡崎文夫氏と同様の見解である。一方、宮川尚志氏は次のように述べて諸葛亮を弁護する。

その幕下には遺憾ながら三軍を指揮するに足る知略縦横な高級指揮官が見出されなかった。魏延・姜維らはむしろ一軍の司令官に堪えられるくらいであったろう。魏の張郃・呉の呂蒙の如き将才が蜀にあり、孔明を輔けたとしたならば、彼の中原北伐は意外な進展を見せたかも知れなかった。
(『諸葛孔明』(講談社学術文庫)p.234)

本書の文庫化前の初版本は昭和十五年だから、昔から史学の立場では諸葛亮の軍事能力に対する評価は賛否両論だったのであろうな、とは思う。ところがよく見ると、この両方の立場は共に陳寿の見解を土台にしている。まず前者は『三国志』蜀書・諸葛亮伝の最後に陳寿が評している

可謂識治之良才,管、蕭之亞匹矣。然連年動衆,未能成功,蓋應變將略,非其所長歟!

と述べているところであり、つまり政治を治めるにあっては管仲や蕭何に次ぐけれども、毎年軍事行動を起こしながらついぞ成功しなかったのは、応変将略を得意としなかったからだろうか、ということだ。一方で『諸葛氏集目録』を上梓する段階で陳寿は次のように述べる。

又自以為無身之日,則未有能蹈涉中原、抗衡上國者,是以用兵不戢,屢耀其武。然亮才,於治戎為長,奇謀為短,理民之幹,優於將略。而所與對敵,或值人傑,加衆寡不侔,攻守異體,故雖連年動衆,未能有克。昔蕭何薦韓信,管仲舉王子城父,皆忖己之長,未能兼有故也。亮之器能政理,抑亦管、蕭之亞匹也,而時之名將無城父、韓信,故使功業陵遲,大義不及邪?蓋天命有歸,不可以智力爭也。

要するに管仲には王子城父という名将がいて、蕭何には韓信という名将がいたから功業を為したのである。しかし諸葛亮には城父や韓信に匹敵する人材がいないのに、管仲や蕭何に次ぐ才能である諸葛亮はどうして成功することができようか。そりゃ無茶ですよ、と述べているのである。先に挙げた宮川氏の述べるところは此処をそのままなぞらえているように思える。

では、皆が結局陳寿の評価の域を超えないのかといえば、必ずしもそうとは言えない。例えば満田剛氏はその著書の中で、諸葛亮の北伐の意図が隴右支配にあり、且つ魏側もその事態を一番懸念していたことに言及。また北伐のタイミングが偶然か否か災害が起こったタイミングで行われており、また魏も同時に兵糧確保が思ったほど容易ではなかったと指摘する。その上で諸葛亮の陣没の地でもある五丈原進出について以下のように述べる。

五丈原の戦いでの諸葛亮の狙いは“持久戦に持ち込んで魏の兵糧が尽きるのを待ち、五丈原の北を通る街道をおさえて隴右.涼州(シルク・ロード)をおさえながら長安を攻めること”だったと考えられる。…(中略)…この持久戦は諸葛亮にとって乾坤一擲を狙ったものであったとしても、決して博打のようなものではなく、勝利への“計算”をした上での戦略であると考えられる。
(『三国志―正史と小説の狭間―』(白帝社)p.252)

このような感じで、諸葛亮に対する評価は一方的に低い評価が為されているのかといえばそうでもなく、逆に諸葛亮の狙いは高く評価されてもいる。しかし読み手にとって一番重要なのは、確かに人がどのように諸葛亮を評価しているのか気にすることではなく、自らがどのように感じるか、史料を読んでその意見を確立させることにある。好き嫌いを語るだけならどうぞご自由に、という感じであるが、誰かを評価する為には自らその評価対象に対して強い関心を持って史料にあたらねばならぬ。先人達もそうしてきたし、これからもそうである。幸いにも『三國志』の日本語訳は図書館に行けば容易に閲覧可能だろうし、誤植も有るが原典はネット上で閲覧可能である。

そのように思う一方、私個人としては最近は史料とご無沙汰だなぁと思う。たまには諸葛亮伝でも読んでみることにしよう。

金子修一『中国古代皇帝祭祀の研究』(岩波書店)

中国古代皇帝祭祀の研究

中国古代皇帝祭祀の研究

金子修一氏の皇帝祭祀・宗廟制度、即位儀礼に関する論考。あまり類似研究は見掛けない。古代と題する割には唐代までがっちりカバーしているので、人によっては本書の一部分だけしか必要ないかも知れない。私のような三国時代にしか興味ない人とか。

最初に唐代全般の祭祀・宗廟制度を世代毎に区切りながら論じ、次いで後漢時代から魏晋南北朝時代について論考を拡大していく。そして最後に皇帝即位儀礼について論じ、終章でそれまでの論考を総括して終える。

礼制の一部である皇帝祭祀について制度の枠組だけでなく実際の運用まで含めて検討すると、そこには意外に大きな変化の跡が認められた。特に、皇帝=天子の権威の来源に関する郊祀(南郊)に関わる側面に大きな変化があった。
(「終章 郊祀・宗廟及び即位儀礼より見た中国古代皇帝制度の特質」p.575)

著者は一連の研究の総括でこのように述べ、制度の枠組自体は後漢までに一旦成立すると外見上変化がないが、運用上は時代によって変化していることを論じている。また即位儀礼についても

中国の皇帝制は専制君主制であるとよく言われるが、唐に至る即位儀礼の内容は制度的に発展を重ねており、臣下による承認を広く求めるようになる点で、皇帝の恣意は予想外に防がれていたと言うことができる。
(「終章 郊祀・宗廟及び即位儀礼より見た中国古代皇帝制度の特質」p.580)

と述べ、堀敏一氏による皇帝即位儀礼の中に民主的要素を包含するとの見解を紹介しつつ、唐代までの皇帝支配は一方的な皇帝の意思の発動ではなかったと論じる。著者自身が最後に述べているように、今回は祭祀の制度を経学的、制度的観点で論述するに止めており、政治的側面の言及は少ない。著者はこれを今後の課題とも述べており、また違った形での皇帝祭祀の論考が出てくるのか興味深いところではある。

何にせよ、鄭玄・王肅両名の経学の知識は本書を読む際に必須となることだけは間違いない。中々の難物である。

谷川道雄『増補 隋唐帝国形成史論』(筑摩書房)

隋唐帝国形成史論

隋唐帝国形成史論

著者である谷川氏は『六朝貴族制研究』の著者である川勝義雄氏ととワンセットで語られるが、実のところ私は谷川氏の著作を読んだことはなかった。偶然にも今日、市立図書館へ立ち寄ったら中国史コーナーに本書が陳列されていた。中国史から見ても重要な著作であることは確かであり、借りて読むのもまた良いのではないか・・・と思った次第である。

さて、まず五胡十六国時代を語る上で重要な先行研究となるのは、内田吟風『匈奴史研究』、それと唐長孺『魏晋南北朝史論叢』であり度々引用されている。西晋は八王の乱・永嘉の乱を経て北部を異民族に奪取されることになったが、その大きな原動力は被支配者層として奴隷的な状況にあった南匈奴が、西晋末の混乱に乗じて匈奴的貴族を中心とした国家樹立という復古運動であったとする。ただし、この復古運動は完全に昔の状況に戻すわけではない。昔ながらの匈奴のあり方は後漢期に実施された南匈奴の征服及び五部族に分割しての統治で崩壊している。この西晋末に起こった南匈奴による国家樹立はその後の漢民族による中国式官制に由来する、と論じる。

その後に成立した慕容氏の燕を含め、著者は匈奴・鮮卑族による国家を

これら国家では帝族の宗室が兵力を分有する傾向があり、そこに軍事的封建制ともいうべきものの存在が指摘される。皇帝権はこうした体制によって大きく掣肘を受けている。特に宗室を代表する人物には強大な兵権が握られ、皇帝権の独裁化を防いでいる。
(第Ⅰ編 第3章「五胡十六国史上における苻堅の位置」)

とその特徴を述べ、中国式の皇帝権力ではなく、彼らの出身である部族連合的な要素がそのまま国家体制に反映されたのであろうと論じている。ただ別の側面として、漢族士大夫を尊重しその官僚機構を受け継いでいる。こうしたバランスの下で匈奴・鮮卑族の政権は成立していたが、皇帝権力の強化を志向してこれらのバランスが崩壊すると、彼らの政権もまた崩壊の方向に転じていった。これを受けて成立した氐族・苻堅率いる前秦も中国伝統の徳治主義政策も相俟って一時は強大な勢力を誇ったが、結局はこの同じ構図を克服することが出来なかった。

この構図を完全に打破するためには諸部族連合的な性格を解消し、府兵制の成立を待たなければならなかった。まず北ギ時代に入ると部落解放が実施され、門閥・賢才主義的な管理制度が整備される。また、北魏時代以降に散見される「城民」や「郷兵」が後の府兵制に結実し、本書ではその概念や成立史を論じている。

以上、本書は特に北朝の動きを制度史的な側面から論述している。本書は1997年に「補編 府兵制国家論」を加えた増補改訂版である。西晋末の混乱で劉淵が自立した後、異民族王朝が如何にして隋唐帝国成立まで制度的な模索を行ってきたかを知るには重要な書物であろうと考える。今日は図書館で借りて読んだが、これは古本屋などで購入し、手元に置いておくべきだと感じた。また改めてこの時代を俯瞰する際の道標としたい。

【再掲】宮崎市定『九品官人法の研究』(中公文庫)

今日は時間がないので、かつて紹介した書籍の再掲である。

九品官人法の研究―科挙前史 (中公文庫)

九品官人法の研究―科挙前史 (中公文庫)

さて、中断を挟みながらも漸くにして読了した本書である。元々、制度史には強い興味があり、本書を読了する前にも同氏『科挙史』(東洋文庫)を読了していた。ただ、『科挙史』の方は隋唐~明清の科挙制度について中心に触れられ、それより前の時代に関しては軽く触れられていた程度であった。

そこで、三国志好きとしては科挙制度成立以前を取り上げた本書に目を付けたわけである。尚、本書は現在絶版の為、宮崎市定全集を購入して読むか、又は中古本を購入する必要がある。全集購入はスペース的にも金額的にも厳しい為、願わくば中公文庫での復刊を願いたいところである。

本書のカバーする範囲は後漢末から隋唐成立に至るまでの魏晋南北朝期である。文庫サイズで600ページを越える浩瀚な書物だが、時代別に章立てされており、通読以外にも一時代だけ確認したい場合にも容易な構成である為便利である。

私の興味は魏晋南北朝期の中でも後漢末~魏晋期が中心なので、この時期を中心に本書の内容に軽く触れたいと思う。

【九品官人法という名称について】
さて、本書を語る前に「九品官人法」という名称の由来について触れておく必要がある。資治通鑑の胡三省注では「九品中正」と注釈されるなど、「九品中正制度」と呼ばれることもあるからである。しかし、宮崎氏によれば「九品中正」という呼称は誤解を招く表現で、本来は「九品官人法」と「中正制度」は各々個別の制度であるとする。「九品官人法」とは官職を九つの等級に分けることを指し、「中正制度」は各地方において人物採用の際に人物評価を行う制度のことである。当然、陳羣が起案して制定した時は両者に密接な関連があったが、貴族社会が発達していくにつれ「中正制度」の方は形骸化していく。

【九品官人法の目的】
九品官人法制定の目的について宮崎氏の見解を要約すると、「漢魏革命実施に伴う政権移譲を円滑に行う為」であったとする。曹操が魏公・魏王の位に就任して鄴に魏を建国すると、曹操に縁の深い人物は魏国の官僚として採用されていく。当然、曹丕が後漢から禅譲を受けて魏帝国を成立させれば、その新政権はかつて鄴で働いていた官僚らがベースになるはずである。

が、単純にそうしてしまえば新政権発足と共に旧政権で働いていた官僚たちは一斉に失職することになる。つまり、二重政府状態を円滑に解消しなければ、失職せんとする旧官僚らの猛反発は必至となり、不測の事態が起こらないとも限らない。その為に用意されたのが「九品官人法」であり、「中正制度」なのである。九品官人法の分類に基づき、中正が新旧両政権の官僚らを評価して魏帝国の要職に就けていく。

宮崎氏は後漢期の各官職の秩禄と魏晋期の九品官人法を比較したとき、高官になればなるほど細かく分類されているのに対し、位の低い官職になればなるほど分類が大雑把になっていることを指摘する。これは九品官人法の本来の目的が高官に対する査定・評価にあったことを示し、この意見の根拠としている。

さて、新旧両政権の人事考課を終えた時点で本来の役目を終えた「九品官人法」と「中正制度」であるが、発布されて施行されたからには今後も継続して運用する必要がある。そこで、この制度による新任官僚の評価を実施することになる。各郡に設けられた中正が各地の青年を評価するのであるが、晋の劉毅が上奏文の中で

「今一國之士多者千數,或流徙異邦,或取給殊方,面猶不識,況盡其才力!」

と述べたように、一つの州で評価すべき人数は膨大な人数に及んだ。この面識もない膨大な候補者を、僅かな人数の中正で、数十年後に何処まで昇進する才能を持つか評価しなければならないのである。こんなことは土台無理な話であり、各中正は人物評価の基準として候補者の家柄等を根拠にし始める。古代中国には元々人物評価を行う風土があったから、地元で評価の高い人物が高い起家官で任用されていく。こうして「九品官人法」「中正制度」は貴族制社会確立の立役者となっていくのである。

【名士論との関係】
漢魏革命前後の人物任用に関する話については渡邉義浩氏の「名士論」が有名である為、この書評の最後に「名士論」との相違を指摘しておきたい。

「名士論」における「九品官人法」の役割は、陳羣ら魏を代表する名士が、名士社会を生み出した自らの風土(儒教を軸に置いた人物評価)を制度化せんとして提案したものとなっている。一方、曹操は自らの君主権確立の為に「文学に基づく人物評価」を行って既存の名士社会に対抗しようとしたが、曹丕と曹植を巡る後継争いの中で名士の発言権が増加し、曹操没後、曹丕は自らを支持してくれた名士達の為にも「九品官人法」を容認せざるを得なくなる。その後、魏帝国では曹爽らによる「吏部尚書による人事権の中央集権化」「玄学に基づく人事評価」を試みるなど名士社会への対抗措置を講じようとするが、これも司馬懿によるクーデターと「州大中正制度」成立によって斃れ、結局名士社会の風土を覆すには至らなかった。

【終わりに】
読んでいて思うのは、本書が発売された当時の研究水準の高さであるように思う。専門に研究している人であれば既読であるだろうが、私の様な一般人にとっては数多のネット上の議論を読むよりはるかに有益である。もし、その分野において長らく読み継がれるべき本を古典というのであれば、この『九品官人法の研究』は既に古典の領域に到達しているように思われる。

『晋書』唐彬伝

唐彬字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬, 好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦恱經史,尤明易經,隨師受業,還家教授, 恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。

彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽恱,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見唐彬,卿受蔽賢之責矣。」

初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞衆力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」

俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。

後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為衆軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍唐彬受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啓戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。

北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征 鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。

彬初受學於東海閻德,門徒甚多,獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。

元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹, 錢二十萬。長子嗣,官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。

まず書き下し文。例の如く、怪しいところもあるので注意して下さい。

 唐彬字は儒宗、魯国鄒の人なり。父の唐台、太山太守たり。唐彬は経国大度有るも、而して行検拘らず*1。少くして弓馬を便とし、游猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び*2、力の強きこと人を兼ぬ。晩なれば乃ち経史を敦く悦び、尤も『易経』に明かたりて、師に随いて業を受け、家に還りて教授すること恒に数百人*3。初め郡の門下掾と為り、転じて主簿たり。刺史王沈は諸参佐を集め、盛んに距呉の策を論じ、以て九郡の吏に問う。唐彬と譙郡主簿の張惲は倶に呉兼ねる可きの勢い有るを陳し、王沈は其の対を善しとす*4。又唐彬に呉未だ伐つ可からずを難言せしむるは、而して辞理皆屈す*5。還って功曹に遷り、孝廉に挙げられ、州は(唐彬を)主簿に辟し、累遷して別駕に遷る。
 唐彬は忠粛公亮、尽規匡救、諫を顕さず以て自ら彰かにす。又奉使相府の計事に詣で、時に僚佐皆当世の英彦なるも、唐彬を見るに欽み悦ばざるは莫し*6。之を文帝*7に称するや、帝は其の参軍孔顥に問うを以てす。孔顥其の能を忌みて久しく答えざるを良しとす*8。陳騫坐に在りて、板に斂して而して称して曰く、「唐彬の為人、陳騫に勝りて甚だ遠し。」帝笑いて曰く、「但能く卿の如きは固より未だ得易からざるに、何ぞ勝を論じるや。」因りて唐彬を辟して鎧曹属と為る。帝問うて曰く、「卿何を以て辟に致すか?」対して曰く、「陋巷に修行し、古人の遺迹を観、言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。」帝は四坐を顧みて曰く、「名は虚行たらず。」他日、孔顥に謂いて曰く、「近くで唐彬を見るに、卿は蔽賢の責を受くべし。*9
 初め、鄧艾の誅するや、文帝鄧艾が久しく隴右に在るを以て、素より士の心を得る。一旦夷滅し*10、辺情騒動を恐れ、唐彬を使して密かに之を察せしむ。唐彬還り、帝に白して曰く、「鄧艾は詭狭に克つを忌み、能を矜り才を負い、順従なる者は見事と為し、直言なる者は之迕に触れると謂う*11。」長史司馬、参佐牙門と雖も、答対が指を失せば、輒ち罵辱せらる*12。身を処するに礼無く、大いに人心を失す。又行事役を施すのを好み*13、数しば衆の力を労す。隴右甚だ之を患苦し、其の禍を聞きて喜び、用を為すを肯じえず。今諸軍已に至らば、以て内外を鎮圧するに足り、願わくば以て慮を為す無かれ*14。」
 俄に尚書水部郎に除せらる*15。泰始の初め、関内侯を賜爵せらる。出でて鄴県令を補し、唐彬は徳を道き礼を斉え、期月にて化成す。弋陽太守に遷り、禁防を設けるに明るく、百姓之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東を呉寇に接するも、監軍の位を欠き、朝議して武陵太守楊宗及び唐彬を用いんとす。武帝*16は以て散騎常侍の文立に問い、文立曰く、「楊宗、唐彬倶に失す可からず。然るに唐彬は財欲多く、而して楊宗は酒を好み、惟陛下之を裁せよ。」帝曰く、「財欲は足るべきも、酒は改め難し。」遂に唐彬を用う*17。尋ね又詔して唐彬を監巴東諸軍事とし、広武将軍を加う*18。征呉の策を上し、甚だ帝の意と合す。
 後に王濬と共に呉を伐し、唐彬は衝要に屯拠し、衆軍の前駆と為る。毎に疑兵を設け、機に応じて勝を制す、西陵、楽郷を陥とし、多く擒獲する所とす。巴陵、沔口以東より、諸賊集まる所、震懼せざる莫く、戈を倒して肉袒す*19。唐彬は賊寇已に殄するを知り、孫皓将に降らんとするに、未だ建業二百里至らず、疾と称して遅留し、競わざるを示すを以てす*20。果たして先に到る者有らば物を争い、後に到る者は功を争い、時に有識は唐彬の此の挙を高せざる莫し。呉平らぎ、詔して曰く、「広武将軍唐彬は方隅の任を受け、呉寇を東御し、南は蛮越に臨み、疆埸*21を撫寧し、綏御の績有り。又毎に慷慨し、志は功を立つるに在り。頃は征討、疾くと奉命を扶け、首め*22に戎行を啓き、俘を献じ馘を授け*23、勲効顕著たり。其れ唐彬を以て右将軍、都督巴東諸軍事と為す。」徴せられて翊軍校尉を拝し、上庸県侯に改封せられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜せらる。朝に疑議有らば、毎に参与す*24
 北虜北平を侵掠し、唐彬を以て使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右将軍と為す。唐彬既に鎮に至り、卒を訓して兵を利し、農を広くし稼を重ね、威震いて武耀き、国命を宣喩し、恩信を以て示す。是に於いて鮮卑二部大莫廆、擿何等並びに侍子を遣わせ入貢せしむ。学校を兼修し、誨誘倦むこと無く、仁恵は広く被る。遂に旧境を開拓し、地を却くこと千里。復た秦の長城を塞ぎ、温城より碣石に洎び*25、山谷は且に三千里に綿亙*26せんとし、軍を分けて屯守し、烽堠して相望む。是に由り辺境は安を獲、犬吠の警無く、漢魏より征鎮之比する莫し。鮮卑諸種畏懼し、遂に大莫廆を殺す。唐彬之を討たんと欲するも、上に列ね報を俟てば虜は必ずや逃散するを恐れ*27、乃ち幽冀の牛馬を発す*28。参軍の許祗は密かに之を奏し*29、詔して御史を遣わし檻車に唐彬を徴して廷尉に付すも、事を以て直して釈せらる*30。百姓は唐彬の功徳を追慕し、生きて碑を立て頌を作るを為す*31
 唐彬は初め学を東海の閻徳に受け、門徒甚だ多くも、唐彬は廊廟の才*32有りと独り目せらる。唐彬官成ずるに及ぶも、而して閻徳已に卒し*33、乃ち為に之の碑を立つる。
 元康初め、使持節、前将軍、領西戎校尉、雍州刺史を拝す。教を下して曰く、「此の州名は、士人林藪*34。処士の皇甫申叔、厳舒龍、姜茂時、梁子遠達、並びに志節清妙にして、履行高潔。境を践みて風を望み、虚心にして饑渇し、加を思い致を延べ*35、以て不臣の典を待つ*36。幅巾相見え、道を論ずるのみにして、豈に吏職を以てし、染を屈して規を高くせんとするか。郡国礼を備えて遣いを発し、以て邑の望に副う。」是に於いて四人皆到り、唐彬を敬い而して之を待す。元康四年卒官し、時に年六十、諡曰く襄、絹二百匹、銭二十万を賜う。長子の唐嗣、官は広陵太守に至る。少子の唐岐、征虜司馬たり。

部分部分でわからないところがあったが、特に晩年で教を下した辺りはわからなかった。アレはきっとどこかの四書五経あたりが出典のはず。わかる人にはわかるのでしょう。雍州のあの4名って所謂竹林の七賢の亜流だったりするんでしょうか。そういった人たちが慕って駆けつけるくらいに唐彬は凄いんだぞ、と。

*1:才能があって度量も広いけど、品行方正というわけではない。後述するように蓄財の趣味がある。

*2:逃げる鹿に追いつける走力!

*3:師匠に経学を習い、学習後に帰宅したら自分の門下生が数百人いて教えてました、と。唐彬の師匠は列伝の最後に出てくるが東海郡の閻德という人物。

*4:主戦論、ということでしょうね。

*5:呉の討伐は時期尚早という意見を難じた言動を唐彬がしたら、討伐反対派は唐彬の意見に従ったということ。

*6:奉使が相府の計事に詣でたとき、その時の唐彬の同僚はみんな当代の立派な人物であったが、それでも唐彬を見たら恭しく思われた…要は同期の中でも別格だったと云うことでしょう。

*7:『晋書』なので司馬昭のことです。

*8:孔顥は恐らく、唐彬が品行方正でないところを評価していなかったのかも。それとも妬みの類か。

*9:司馬昭がとても唐彬を気に入った為、孔顥が唐彬について何も答えなかったのを咎められた、ということである。

*10:夷=蜀漢

*11:鄧艾は才能を自負していて、自分の意見に従う人が評価され、直言する人物は反抗的と見なされるということ。正確な表現かどうかわからないが、唐彬の鄧艾評は「自分の才能を強く信じているため、その手足になる人物(イエスマン)を評価し欲しがっている」と。

*12:長史だろうが司馬だろうが参佐だろうが牙門将だろうが、鄧艾の要求に対する答えが的を得ていなかったら、罵倒されて人前で辱められるのだろう。社内である程度の地位のある人が、他の社員の前で重役から罵倒されているようなものである。

*13:たぶん、公共工事的な何か。

*14:鄧艾は人の恨みを買って隴右の人から支持されていないから、鄧艾が誅殺されたからといって司馬昭が心配するようなことは何もないですよ、という結論。唐彬、随分とぼろくそに論じたものである。

*15:何だ?治水又は水軍担当の尚書郎か?

*16:司馬炎のこと。

*17:財欲は満たされることがあるかも知れないが、酒好きは治らないので同程度の能力なら唐彬を使おう、という判断。酒による失敗のリスクを取るより、物欲に伴うリスクを司馬炎は取った。文立はその辺の判断がし辛く、後の責任回避のために司馬炎へ判断を押しつけたのだろう。すごくサラリーマン的だ、文立(笑)

*18:この文脈から判断すると、監○○諸軍事は都督職(都督○○諸軍事)の品官的な意味での下位互換と言うよりは、監軍の役割が色濃く残った職務だと言えるかも知れない。他の事例も確認したい。

*19:呉の軍勢が戦意喪失して悉く唐彬に降伏したことを指す。

*20:已に敵も戦意無く勝利も時間の問題なので、建業一番乗り競争に加わらず其の手前で留まったらしい。

*21:国境のこと。元々は田畑のあぜ道。

*22:始め、の意味。

*23:「馘」とは戦功を報告するために切り落とす敵兵の左耳、転じて首のこと。首級。

*24:これは翊軍校尉の職務なのだろう。都督職の仕事じゃないし。

*25:及び、の意味。

*26:長く続く、の意味。

*27:即時に軍事行動へ移りたいが、その意見を中央に伺って結果報告を待つという時間の浪費はしたくない、という考えだと思われる。

*28:冀州の牛馬を徴発できたのは護烏丸校尉の権限?少なくとも監幽州諸軍事ではないだろうな。

*29:所謂「コンプライアンス違反です!ちゃんとルール守りましょう!」という事で密かに上奏したのかも知れない。

*30:一時更迭されたけど事情を説明したら許された、という事だと思う。

*31:碑を立てたいあまりに自作してしまった某左伝癖の人だって居るのに…羨ましい限りです。

*32:廊廟=廟堂。表舞台で政治を取り仕切る才能がある、という意味。

*33:期待通りに唐彬が大成した時には既に師匠は亡くなっていた、と。

*34:人材が沢山居るから雍州という名前にしました、ということだろう。

*35:思加延致って何かの熟語だろうか。よくわからん。

*36:これもどういう意味かよくわからない。どこか経典の定型文だろう。