【再読】M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫)

ここ数年は電子書籍ばかり読んでいて、仕事上を除けば紙の本は滅多に読むことがなかった。しかしここ最近、紙の書籍に復帰した。きっかけは何年か越しの部屋の掃除であった。

 

読書そのものを止めていたわけではないけども、電子書籍ばかり流し読みしていた結果、アウトプット行為からは久しく離れてしまっていたように思う。ここのブログの更新履歴が何よりも物語っている。

そこでもう一度、読書という行為をおさらいする為にM.J.アドラー「本を読む本」(講談社学術文庫)を読もうと考えた。アドラーは読書という行為について、このように述べている。

読むということは程度の差こそあれ、ともかく積極的な行為だが、積極性の高い読書ほど、良い読書だということを特に指摘したい。(p.16)

高度な読者を相手に書かれた難解な本こそ、このような積極的な読み方が必要であり、また、そのような読み方に値する。(p.19)

その意味で、本という物は自然や外界と似ている。本に向かっていくら問いかけてみても、読み手が考え、分析した限りでしか、答えは返ってこないのである。(p.25)

積極的な読書という考え方は、本書全体を貫くテーマである。ある種の啓蒙、鍛錬として良い読書を位置づけ、その手段を読者に与えることが本書の目的である。娯楽としての読書は初めから対象外とされている。

原書の発刊時期は1940年のアメリカ。ここまで強烈に積極的な読書を推進する訳は、マスメディアに囲まれた生活によって人間の精神的な営みが衰えているという危機感がある。テレビやラジオ、様々な娯楽や情報は人為的なつっかい棒であるが、人間的な成長はもたらさない。積極的な読書による精神的成長を続けなければ、人間としての死を迎えるとまでアドラーは断言する。

自分の中に精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死がはじまる。(p.254)

自分の中に精神的な貯えを持たなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。そのとき、われわれの死がはじまるのである。(p.254)

こういったアドラーのテーマと問題意識を背景として、読書術が展開されていく。古今東西の膨大な書籍に対して綿密な分析を実施することはとてもでは無いが、時間的にも労力的にも困難である。その為、具体的な分析読書やシントピカル読書をする前に点検読書を推奨する。点検読書の目的は、多量の文献に対して精密分析するだけの価値があるかを短時間に峻別することにある。巷の速読術とか大量にビジネス書を読みこなすテクニックなどは、この点検読書の一種である。

  • 表題や序文
  • 目次
  • 索引
  • 帯などの謳い文句

こういった情報を参考としながら、拾い読みして全体のテーマや論点を整理し、その後の段階に至るべきかどうかを読者は判断しなければならない。そしてその中で己を成長させうる、難解な書籍に対して分析読書を開始するのである。

分析読書ではキーワードや単語の使われ方、論理展開に気をつけながら著者の主張の把握に努めることになる。しかしながら、読者の役割は著者の主張を理解するだけではない。

内容が理解できただけでは、積極的読書として十分とは言えない。「批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する」。(p.146)

つまりアウトプットである。アドラーは批評のポイントとして、著者の主張に以下4点が欠落していなかったか読者に確認を求める。

  1. 知識が不足している
  2. 知識に誤りがある
  3. 論理性に欠け、論証に説得力が無い
  4. 分析が不十分である

この4点のどれかが引っ掛かれば、読者は著者に対してその誤りや不十分さを指摘する。逆に、これらが完璧であれば、読者は著者の主張に対して首肯することになるのである。

そして著者が最後に掲げるのがシントピカル読書である。これはあるテーマに従って複数の書籍を比較検討する読み方であって、卒業論文等で実施される文献調査のようなものである。その際、読者は各書籍の表面的な用語やキーワードの違いに惑わされることなく、書籍同士の関連性を見抜かなければならない。よって、シントピカル読書を実行する為には点検読書や分析読書に習熟していなければならない。高度な知的営みである。

シントピカルな分析が獲得しようとしている特性は、「弁証法的客観性」という言葉で要約される。(p.234)

書店に行けば読書術に関係する書籍は幾つも見るが、このアドラーの「本を読む本」はその中でも白眉である。本を読み、その内容をアウトプットするという知的営為を行う者にとって、本書は座右とすべき一冊と考える。

なお、本書の紹介は2回目となる。過去の記事を読むと、同じ本を読んでも感じ方が違うものなのだなぁと思った次第。

パズドラをプレイしてます

TwitterのFollowerさんの中で「puzzle & dragon」というアプリををプレイしている方が結構いたりするので、最近になって私も始めている。ゲームの詳細は各種wikiや紹介記事に譲るとして、今の私の状況がどんなことになっているのかご紹介しよう。

 
そんなわけで、以下はゲームに興味ない人にとって面白くない記述が続くので、回れ右奨励。

万年筆購入

最近、万年筆に興味を持つようになった。その遠因は先月に大学時代の先輩と一緒に行った来年の手帳探し、又は同じような時期に訪問した文房具カフェに求めることができる。

実は何年か前にも万年筆に興味を持ってOHTOのF-Lapaを購入したのだが、あまり文字を書き残す習慣はなかったことから最終的に使わず終いで万年筆そのものも紛失してしまった。今思うと少し勿体ない気もする。その間、私は世の中に出回っている電子文具を試し、pomeraなど一部は購入したし、スマホやタブレット、ノートパソコン、後はいくつかのSNSやクラウドサービスも利用。ともすればアナクロな物など不要と言わんばかりの環境になっている。一方、手帳は手書きで整理していたりして、必ずしも完全に手書きの機会はなくなっていない。

今回、新しく購入したのはPILOTのコクーン。万年筆の特性上、左利きにとって万年筆は扱いづらい代物という話もあったりするが、丸善の文具店で目立つ位置にあり、試し書きをして引っ掛かり無く書くことができ、デザインがシンプルで好みであり、しかも高くない(←重要)。そういった理由により購入に至った。

以後、比較のためにPLATINUMのプレピープレジール、それと無印良品のアルミ丸軸万年筆を購入した。感想としては、プレピーは見た目が凄く安っぽく、紙に引っ掛かる感覚があり、またインクが掠れたり逆に大量に出てくる等イマイチ出力が安定しない。200円という破格の値段を考えれば仕方無いことなのかも知れないが、長く使おうとしたときにインクによるイライラは軽い問題では済まされない。また、プレジールはそれ以外の万年筆全てが細字(F)なので敢えて中字(M)を購入したが、それが幸いしたのか、インクは比較的安定して出ているし、持ち方次第では力むことなく文字を書くことができる。ただこれも、ペンの持ち方を極めて制限するので、その点は常に注意を払わねばならぬ。無印良品は見た目もシンプルで価格も安いが、何も書き味とかで主だった不満はなく、1000円少々で入手できるのであれば御の字である。ただ、長時間持っているとアルミのグリップが少し辛いかも知れない。こればっかりは長時間連続使用してみないとわからない。

それとこれは完全に好みの問題だが、PLATINUMのカートリッジインクは全般的に水彩のような雰囲気があって、硬質な文章を書くときにはえらく不向きであるように思う。逆にふんわりとした(?)文章を書くときには面白いかも知れないが。コンバーターでも取り付けてPLATINUM純正の好みの色を探すしかないだろうけど、果たして200円とか1000円の万年筆でやることなのかと考えると少し躊躇する。ネットを検索すると、やっている人も居るみたいだけど。

いずれにせよ、常用する万年筆を選ぶとすれば手持ちの中ではコクーン一択。無印良品の万年筆は黒いインクなので、会社に置いておいて使い潰すのが正しい利用法だろう。もっともこの無印良品の万年筆はOHTOによるOEM生産で、インクは欧州共通規格だったりするから限りなく汎用的だったりするのだけれども。

喪の最中に何かがあった場合。

喪に服する時は「喪に臨みて笑わず」とか色々と哀悼の意を表して謹んで生活をするわけだが、喪の最中にトラブルがあった場合はどうやら例外措置があったようだ。『禮記』曲禮編上には次のような記載がある。

「居喪の禮、頭に創有れば則ち沐し、身に瘍有れば則ち浴し、疾有れば則ち酒を飲み肉を食らい、疾止めば初めに復す。喪に勝たざるは、乃ち不慈不孝に比するなり。」

だから幾ら喪に服しているからといって、自分自身の身体を駄目にしてしまっては、生んで育ててくれた親に申し訳がないし、倒れて祭祀が行えないとなると祖先に対しても申し訳が立たない。だからこういう例外規定がちゃんと設けられているのであろう。

古代の礼制も決して杓子定規の世界ではないのである。みんな、『禮記』の記載通りにちゃんと守っていたかどうかまでは分かりませんけども(笑)

近況報告

色々と長く時間をあけていたが、その間に考えていたことを幾つかまとめて記す。

<サーバ用のパソコン新調の件>
パソコンを新調したいと考えていた。別に現行機でも何ら困るような性能ではないのだが、今までBTOパソコンばかりで実際に自作した経験がないのでやってみたいこと。最新パーツでなくてもサーバ程度の利用なら安価で済ませられる見込みのあること。こういった関係で一度ゼロから組み立てようと思い立ったのである。

そして今回の検討に置いては、もう一つやろうと考えたことがある。それは地デジ対応のパソコンにすること。地デジ化してからテレビを自宅で見ていないから、これを機に設置しようというものである。もっとも、1年間見ないで業務上も私生活も支障なかったのだから、このまま無くても問題なしともいえるが。

検討を進めた結果、サーバ目的ならLinux系OS及び1世代以上前のパーツ構成でも何ら問題ないことがわかったが、一方で地デジ目的を志向するとWindows系OSで最新パーツ(性格には地デジの規格適合品)にしないといけないことがわかった。結果的に費用は嵩む傾向に。

長く比較検討していると意欲が徐々に減るため、今は検討を中止している。今すぐ買わないとやばい、何が何でも欲しいという筋合いのものではなかったということだ。

<タブレット+Bluetoothキーボード組み合わせの件>
タブレットを購入してもうすぐ1年が経過するが、通常のネット検索やSNS利用では特に不自由していない。むしろ私が購入したのがASUSのTransformer TF101であることから、今までのWindows系OSからの移行に違和感すら感じなかった。ここ1年間の経験を考慮する限り、外出先はタブレットで何も問題ないだろう。

しかし今の10.1型は持ち運ぶのには少々大きい。一回り小さい方が望ましいと考える。そのため、7型あたりが次回買い換えの候補に挙がる。お値段的にも手頃感があるし、ヘビーな使い方を想定しなければ7型でも十分だ。後は琴線に触れるような端末に出会えればいいのだが、電器量販店の店頭を見る限り、あまりパッとしない。そもそも私の利用する店のタブレットコーナーがこじんまりとし過ぎているのだが。

それに今度はキーボードの問題もある。今使用しているポメラのDM20が外付けキーボードとしても利用可能なら問題ないのだが、実際はQRコード読みとりを経由しないとダメだ。そして店頭で外付けキーボードを見るに、ポメラに勝るキーボードは無い(使い慣れているということもある)。最新型のDM100はAndroid端末ととにかく相性が悪く(iPhoneやiPadとは相性が良い)、英語キーボードの認識からうまく変更できない。QRコード読みとりを使用するのであればDM20と何ら変わることはなく、あえて買い換えようとする必要性はなくなる。

結局、1年間かけて理想的な組み合わせは脳内にできあがっているのだが、購買意欲を沸き立たせるような実機が見つからないという実状だったりするのである。

<ミラーレス一眼レフカメラ>
ミラーレス一眼レフを購入して4ヶ月。写真を撮ることは嫌いではないので、何か機会があるごとに写真撮影をしている。私の場合、特に飲食物と風景がメインになるのだが。

カメラに凝りだすとレンズ及び周辺機器に投じる金額が増える。私の場合はすでにカメラ本体と標準ズームレンズ、単焦点レンズ、望遠レンズの3つを購入している。殆どアウトレットでの入手なので定価に比べて幾らか安価なのだが、しかし全体的にはそれなりだ。

今後は脚立の購入が最有力になるだろうが、そのためには持ち歩くカバンを検討しなければならないし、バッグばかり増えても仕方ないし云々・・・という問題がある。しばらくは単焦点か標準ズームで撮影をすることになるだろう。

小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)

先日、@yunishio殿と神田神保町を散策した際、小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)という本を偶然にも見つけた。河出書房は東洋史や戦略論好きな私にとってさほど重要ではなく、新刊もチェックしないしコーナーにも立ち寄らない、そんな扱いだった。正直興味がわかないのである。ラインアップ的に。

で、神田神保町となると東洋史関係の書物を一堂に会しているため、そういった文庫でも個別に陽の目を見ることができる。それが本書である。

著者はDTP組版の研究者でJIS X 0213規格制定に関わった、漢字研究の第一人者でもある。そもそも異体字とは何か、そういった諸事情を細かく解説してくれる。

結論から言えば、現在のような常用漢字だとか第○水準漢字のような区分けができた理由は、江戸時代までの手書きから明治以降の活版印刷技術の普及、そして漢字を一般庶民に普及させるための標準化・簡便化である。この取り組みは明治初期から現在に至るまで脈々と続いており、GHQの陰謀とかそういうのは全く関係がない。また戸籍管理のためにかくも膨大な漢字を規格として定めている。逆に言えば、正字とか異体字とかの区別はそれ以上の意味がないのである。

こういう異体字とか略字とか正字とかの区別は、一つには康煕字典に定めているというところに求めうるが、実はこれも全てが正確なわけではなく、実用例がないのにむりやり正字にしてしまったり所々の誤りが見受けられる。

本書を読んで面白いのは、現在使われている新漢字というのは正字に対する略字や俗字に属するものが多く、決して現代になって新しく急造したものではないと言うこと。そして中国の簡体字についても事情は同じで、数多くの略字・俗字の中から採用した文字が偶然にも日本と異なっていただけにすぎない。どちらが正しいとか間違っているではない。両方とも昔から元々存在していて、それを国としての常用漢字として採用した文字が違っただけなのである。実は日本の旧漢字にも事情は全く同じである。旧漢字が正しいという理由はなにもない。

ともすると今受けている教育、又は昔の学校教育で習う漢字こそが正しいと錯覚しがちであるが、漢字の世界はそう一意的に決められるものではない。もし近世以前の古典の世界に浸るのであれば、これまで学校教育で習ってきた漢字に関する固定観念を捨てて接するようにしなければならないだろう。

マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫)

マイケル・ハワードによるヨーロッパ戦争史の解説。中世ヨーロッパ時代から第2次世界大戦までをカバー。全体の分量は約300ページほどだが、各時代の戦争を「封建騎士の戦争」「傭兵の戦争」「商人の戦争」…という風に戦争の主体者を軸に論述を行っている。第2次世界大戦以降の記述がないのは、エピローグにあるように自己充足的国際体制としてのヨーロッパがその時点で終演したと著者が見ているからである。それ以降のヨーロッパの紛争は世界的な動きというより、単なる世界の中の一地方紛争でしかないとも述べている。

本文そのものもそうだが、それとともに巻末の参考文献一覧や石津朋之氏による解説も大変興味深い。強く興味を持った場合には、これを手がかりに色々と文献を渉猟するのも良いかと思う。

新ブログ開設

編集
流石に中国史のBlogでTex記法の数式が溢れているのは如何かと思い、こちらの方に新しくBlogを解説する。こちらのBlogは完全に理系関係の記述で埋める予定。

この為にわざわざはてなダイアリーの有料コースを登録したが、携帯アプリで最近ご無沙汰名コースを解約すれば月々の金額は普通に確保できるから問題ない。というより、今までそういう有料アプリを放ったらかしにしていた自分に問題があるとも言えるが。